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INTERVIEW

特定非営利活動法人ジャパンハート

小児科

吉岡 秀人

第二次世界大戦を原点に、一つの思いを貫く

戦後20年目の大阪。その地下道には行き場をなくした多くの傷痍軍人がいました。その姿を見て育った吉岡秀人先生。吉岡先生は貧しい人のために医師になると決め、ジャパンハートを立ち上げ、その決意を曲げることなく活動を続けています。原点、思いの裏側、そしてジャパンハートに関する思いを伺ってきました。

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医師になって海外へ行くと決めた中学時代

なぜ医師になろうと思ったのですか?

きっかけは、よく分かりません。途上国の現実は、誰の心も痛めます。でも、恐らく結果的にはこの生き方が私の個性に合っていたのだと思います。何によって結果が生まれるかというと、その人の個性に合うかどうかです。個性が合えばそこに道が当然開くでしょうし、合わなければいくら良いことでも、長くはできません。日本を出れば、500m先に病院があっても絶対に診てもらえない人たちがいます。どうせ医師になるのなら、そのような海外の絶対的医療へき地で医師になろうと思い、それが結果的に私の個性、あるいは才能と完全に合っていたということです。

1945年敗戦。日本全土焦土。戦後20年目の大阪では、多くの傷痍軍人が行き場をなくし地下道で生活していました。そんな頃に私は生まれ育ちました。私が中学校の時、カンボジアではポルポト政権、中国では文化大革命、韓国では軍事政権でした。その時、気付いたのです。たった20年という時間のずれと、わずかな空間のずれの、その偶然性の上に自分の幸せがあると。これほど恵まれて幸せであるならば、世の中に返さないと悪いなと、中学生の時に思ったのです。ここで私の生きる方針は作られました。これは何かというと、自分の運命に対する感謝です。

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最初に医師になろうと思った時、すでに海外に行こうと決めていたということですか?

そうです、そのために医師になったのです。もし私が海外に行かなかったら、医師を辞めようと思っていました。10代の時に「医学部に行って、海外で医師として働こう」と思って、30歳で海外に行ける状況が全て整っているのに行かないということは、どういうことか?それは、自分の若い時を裏切っているということです。若い頃の自分の夢を叩き壊しているということなのです。

私は、30歳になった時に、もっと純粋だった若い頃の自分の夢を裏切るようなら、医師を辞めた方がいいと思いました。だから私の人生を動かしているのは、もう何年も前に考えたこと、何年も前にしたいと思ったことです。それを今の自分がかなえている。十分ではないにしても、かなえようとしているのです。そうしないと、いくつになっても過去の自分の人生を裏切っているということになるのでね。そして自分の人生を裏切り続ける人間に、自分の人生は微笑んでくれないということです。

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PROFILE

吉岡 秀人

特定非営利活動法人ジャパンハート

吉岡 秀人

特定非営利活動法人ジャパンハート代表

1965年大阪に生まれる。大分大学医学部を卒業後、大阪、神奈川の救急病院で勤務。1995~97年にミャンマーにて医療活動を行う。一度日本に帰国した後、2003年から再びミャンマーへ渡り、2004年に国際医療ボランティア団体ジャパンハートを設立。2008年にNPO法人格を取得、ミャンマーの他にカンボジア、ラオス、フィリピン、インドネシアで医療支援活動や現地人医療者の育成、災害時の救援活動などを行い、また日本では、東日本大震災での被災地支援や心のケア活動、へき地・離島への医療人材支援、小児がんの子どもとその家族を応援する「すまいるスマイルプロジェクト」などを行っている。

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