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INTERVIEW

アキュセラ・インク 会長、社長兼CEO

眼科

窪田 良

一人でも多くの人を失明から守るために

20代で研究者として緑内障の原因遺伝子「ミオシリン」を世界で初めて発見、30代で眼科医として臨床を極め、40代では起業家として、患者数が多いにもかかわらず治療薬がない目の難病に対する飲み薬の開発に取り組んでいる窪田良先生。2011年に米国の「PharmaVOICE 100」(ライフサイエンス業界で最も影響力のある100人)に選ばれ、同年の日経ビジネス誌では、無から有を生み出すCREATOR(創造者)として「次代を創る100人」にも選出されました。2013年にはウォール・ストリート・ジャーナルで「世界を変える日本人」としても紹介されています。変化を恐れず前例のないことに挑戦し、成功するまで続ける原動力は、いったいどこにあるのでしょうか?

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世界で初めてのことをしたい

なぜ眼科医になろうと思ったのですか?

人であれ動物であれ、目には、意思疎通の接点という要素があります。体の中でも面白い部位だと思い、子どものころから目に関心を抱いていました。「患者さんを診るだけではなく、新しい医療を開拓する研究もできる医師になりたい」という思いも、そのころから持っていたような気がします。それに加えて、診断から治療までの全てを一つの科だけで行うことができ、手術ができることも、眼科を選んだきっかけになりました。

緑内障の原因遺伝子「ミオシリン」を発見した研究は、世界的にも有名になりました。これに取り組んだきっかけを教えてください。

医師免許を取り、大学院で研究をしようという時には、既に「網膜に特異的な遺伝子を見つけて病気のメカニズムを解明したい」という気持ちが固まっていました。当時はヒトゲノムプロジェクトの真っただ中だったこともあり、人の体の設計図ともいえる遺伝子に興味があったのです。それらが目の機能にどのように関係しているかを明らかにしたいと考えました。

同時に、目に関して重要な役割を持つ、まだ誰も見たことがない遺伝子を発見してみたいという思いもありました。冒険家が海に出て新大陸を発見したいというようなニュアンスですよね。とにかく何か世界で初めてのことをしたいと考えていたんです。

「ミオシリン」の発見後、研究を続けるのではなく、臨床の道へ進まれたのはなぜですか?

医師になったからには、患者さんを診ないで終わるなんていうことは考えられませんでした。基礎医学の教室からのお誘いもありましたが、私にはやはり臨床に行きたいという思いがありました。一度きりの人生の中でいろんな経験をしたいし、チャレンジしたい。もともと好奇心が旺盛でいろんなことをやりたいタイプなんです。

でも新しいものを手に入れようと思ったら、今持っているものを手放す必要があります。そういった意味で、研究については一区切りついたなという感覚がありました。新しい遺伝子を発見したことで、一番やりたかったことはできたと感じていましたので、当時の研究を離れることに悔いはありませんでした。

 

20代で研究、30代で臨床、40代では起業とステージを変えていらっしゃいますが、最初からこのような目標があったのでしょうか?

研究も臨床も、ここまでやろうと目標を定めてスタートしたわけではありません。虎の門病院で臨床の仕事に就いた時も、これを極めるのに何年かかるのか、全く見当もつきませんでした。

どこまでやったらやりきったと思えるのかは、やってみないとわかりません。ですが、一つのことをやり続けていくと、ある時点で有形無形のフィードバックが来るようになり、その分野である域に到達したのだろうということが認識できるようになります。例えば、目が見えなくなったら仕事を失うという状況にある人から執刀医として手術を託されるようになれば、眼科医としてある程度の信用を得たのだろうということがわかります。先輩の先生方に「それでどこがやりきったんだ?」なんて言われてしまうと困るのですが、私の中ではそれが一つのことをやりきったという指標になりました。

私は前例にしばられないように努めているので、どんな人生が開けていくかわからない状況に置かれても不安は感じません。むしろ自分の予想を超えた出来事が広がっていくことに、やりがいや手応えを感じるのです。

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PROFILE

窪田 良

アキュセラ・インク 会長、社長兼CEO

窪田 良

1991年慶應義塾大学医学部を卒業後、同大学大学院で博士号を取得。研究過程で緑内障の原因遺伝子であるミオシリンを発見し「須田賞」を受賞した。その後、虎の門病院などに勤務し、眼科専門医として緑内障や白内障などの執刀経験を持つ。2000年より眼科シニアフェロー、助教授として米国ワシントン大学に勤務。2002年シアトルの自宅地下室で起業し、2014年2月米国企業として初めて東証マザーズに単独上場。著書に『極めるひとほどあきっぽい』(日経BP社)がある。ワシントン州日米協会理事、全米アジア研究所 (The National Bureau of Asian Research) 理事、G1ベンチャー アドバイザリー・ボード、慶應義塾大学医学部客員教授

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