coFFee doctors – ドクターズドクターズ

INTERVIEW

平戸市民病院

内科

中桶 了太

平戸版地域医療教育を全国へ広げたい

10年間基礎医学研修者としてキャリアを積んできた中桶了太先生は現在、本土最西端の長崎県平戸市にある平戸市民病院で、地域医療研修の教官を務めています。1年間で平戸市民病院に来る研修医は40名以上。のべ200名の研修医の教育をしてきました。研修医が集まる理由とは―? そして中桶先生の展望を伺いました。

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • 1
  • 2
  • 3

基礎医学研究者から、地域医療研修の教官へ

―現在、どのようなことに取り組んでいるのですか?

私は、長崎大学病院へき地医療病院再生支援・教育機構に所属しています。そして2005年から平戸市民病院に出向し、平戸市民病院内に初期研修医を集めるセクションを設置、年間40名程来る研修医の教官をしています。

研修医が増えて平戸市民病院だけでは教育しきれなくなってきた段階で、平戸市と隣の松浦市にある4つの医療機関と「ながさき県北地域医療教育コンソーシアム(通称:あごねっと)」も発足させました。うまく連携しながら、長崎県北全体で研修医の教育に取り組んでいます。

―平戸市民病院に初期研修医を集めるセクションを設置した経緯を教えていただけますか?

長崎県は日本一多くの離島が属している県です。離島は交通手段が限定されているので、離島振興法が整備されその中に医療資源確保のための制度が整備されていました。しかし平戸市は島であるにもかかわらず、本土と橋でつながっているため、行政上離島とみなされません。そのため、離島医療支援の恩恵を受けられず、県内でもある意味「置き去られたへき地」となっていました。

長崎大学病院へき地医療病院再生支援・教育機構の機構長である調漸先生が機構を発足させたときに、平戸市のような地域の医療支援しようと決意。平戸市民病院の支援に入り、研修医教育の強化を図ることにしたのです。

当時、私は調先生のもとで神経内科医として勤務していたのですが、自ら希望して平戸市民病院での指導教官として赴任しました。

―中桶先生ご自身は、もともと地域医療に興味を持っていたのですか?

いえ、実は大学卒業後から約10年、私は基礎医学研究者でした。そして研究者として米国にも留学しましたが、帰国後、長崎大学病院の神経内科で改めてキャリアを積んでいこうと思っていました。ところが神経内科の先輩である調先生が、長崎大学病院へき地医療病院再生支援・教育機構長に就任。それをきっかけに、私自身も地域医療に従事するようになりました。

我ながら異色のキャリアだと思います。しかし、振り返ってみると、既存の医療を何かしら変えたいという想いは持っていました。大学病院の診察室で患者さんが来るのを待っているだけの医師にはなりたくかなった。そして、何もないところから自分のアイデア次第でいろいろなことができるのは、とても面白いものです。キャリアアップの仕方にしても、現在の平戸市民病院での教官にしてもです。それが決め手になっているかもしれません。

  • 1
  • 2
  • 3

PROFILE

中桶 了太

平戸市民病院

中桶 了太

平戸市民病院/長崎大学病院へき地病院再生支援・教育機構
1995年長崎大学医学部卒業。国立長崎中央病院(現・長崎医療センター)にて臨床研修。2000年長崎大学大学院医学研究科(細菌学)卒業、長崎大学大学院医歯薬総合研究科神経感覚薬理学助手を務める。2002年より、米国ミズーリ州セントルイス大学医学部に客員研究員として渡米。帰国後の2005年、長崎大学医学部第一内科入局、直後、長崎大学医学部・歯学部付属病院へき地病院再生支援・教育機構准教授として、平戸市民病院にて初期研修医の研修プログラムの教官を務める。

↑