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アウトローを突き進む医師が考えていること

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米国で医師免許を取得後、日本の医療機関で勤務を始めた宮内亮輔先生。現在4年目を迎えた宮内先生は「完全にアウトロー」な人生だと言います。どんな人生を歩み、今後どのように進むのか伺いました。

◆米国医師免許を取得してから日本で働き始めた

―医師を志した理由から教えていただけますか?

医師になりたいと思い始めたのは高校生の時でした。しかし、どうしても日本の大学に入るための受験勉強をする意味が見出だせず――考えついたのは、日本の日常とはかけ離れた世界、アメリカに行くことでした。以前より海外の映画などを見ていたときに、なぜ日本語以外の言語でコミュニケーションがとれるか疑問に思っていたんです(笑)。医学部に行くかどうかはさておき、英語で日常会話が成立する世界を実際に体験したいと思ったのです。そこで、高校を卒業した年の9月からアメリカの4年制大学に進学しました。

アメリカ行きを決断できたのは、父が「やりたいことがあるならやってみたらいい。日本で医師になりたかったら、遠回りにはなるけどまた戻ってきて目指したらいい」と背中を押してくれたことが大きかったですね。

アメリカでの生活では、まず辞書を片手にルームメイトに話しかけながら、英語での日常会話に慣れるところから始まりました。大学生活では、1,2年は必修科目が多かったですが、3,4年になると選択の幅が広がり、私は興味の赴くまま物理や生物を選択していました。すると徐々に「そういえば医師になりたいと思っていた」と思い出すようになり、アメリカで医学の勉強をしようと考えるようになったのです。

アメリカは4年制の大学を卒業した後、さらに4年間メディカル・スクールに通わなければいけません。しかし生活費もあまりなかったので一度帰国し、6年ほど日本で働きながらアメリカでの生活資金を貯めていきました。

そうです。この6年間ではいろいろなことをしました。父が起業してアイデア商品の企画・開発・販売を手がけていたので、そこで一緒に商品化できそうなアイデアを練ったり、都内の病院でボランティアをしたり、ひょんなことで出会った、徳田安春先生のカバン持ちのように各地の病院の見学をさせてもらったりしていました。

―それでアメリカで医師免許を取るために、再び渡米されたのですか?

そうです。28歳で再び渡米し、私立のメディカル・スクールに入学しました。カリキュラムは、2年間の基礎医学と、もう2年間のクリニカル・ローテーションが中心でした。小規模な学校だったので、附属の医療機関があるわけではなく、アメリカ国内100近くの医療機関と連携していて、それらの病院を回ることで、実習を積んできました。

32歳でアメリカの医師免許を取得する試験を受け合格、志望していた一般外科の病院にマッチングもしました。アメリカで医師として働くには、あとは日本の労働ビザを取るのみ、というところで思わぬアクシデントに遭遇してしまったのです。

―アクシデントというのは?

日本の労働ビザが取れなかったのです。日本の労働ビザは、日本人が海外で働き、そこで得た知見を日本に持ち帰ることが前提で発行されています。そのため、日本の医師免許を持っていない私がアメリカで医師として働くための労働ビザを発行してもらうことができなかったのです。それでマッチングしていた病院で働くことができなくなってしまいました。

アメリカの病院で、マッチングが通っていたにもかかわらず働かないのは言語道断。2年間、マッチングを受けることが禁止されてしまいました。そこで、日本での医師国家試験受験資格認定制度を使い、日本の医師免許を取得し、日本の病院で働くことに決めました。

私が通っていたメディカル・スクールには日本人もいなければ、労働ビザが取得できなかった外国人もいなかったため、必要な書類を作成してもらうのにかなり手こずり、1年ほどかかってしまいましたが、2016年2月の国家試験を受けて無事に合格、2016年4月から湘南鎌倉病院で初期研修をスタートしました。ちなみに今思い出してもこの書類集めが自分の人生で一番辛かったと記憶しています(笑)。

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医師プロフィール

宮内 亮輔 放射線科

Ross University School of Medicine卒業。2016年、日本の医師免許を取得し、同年4月より2年間、湘南鎌倉総合病院にて初期研修修了。2018年4月から聖マリアンナ医科大学放射線科で、画像診断の研鑽を積んでいる。

宮内 亮輔
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