6年間救急医として亀田総合病院で活躍したのち、志摩市民病院(三重県)の副院長を務め、現在は複数の地方病院の運営支援に携わるという異色のキャリアを歩んでいる日下伸明先生。その過程には、いくつもの悩みや葛藤もありました。そんな中で、なぜ今のキャリアを選択したのか——背景の思いをじっくり語っていただきました。
◆医師8年目で自治体病院の副院長に
—2022年4月から2024年3月まで志摩市民病院の副院長を務められていました。どのような経緯で就任したのですか?
いくつかの背景があります。まず、亀田総合病院の救急科に在籍していた時、救急科の人手不足が深刻で、センター長やスタッフと協力しながら運営マネジメントや教育に力を入れていました。そこから、マネジメントや組織づくりに興味を持って独学で勉強しながら取り組んでいたら、亀田総合病院の中で救急科がベスト指導科として表彰されたり、私自身もベスト指導医として評価されたりしたんです。教育やマネジメントが自分の1つの武器のような存在になると同時に、環境や文化を変える良いツールになることを学びました。この成功体験がきっかけの1つです。
ただ、亀田総合病院に在籍経験のある人と話をする中で「亀田にいた」と口にする一方で、「(亀田総合病院がある)鴨川市にいた」と話す人はほとんどいないことがひっかかっていました。いくら教育環境が整っていても、鴨川市への思い入れや愛着がなければ離れていってしまい、人が残らないのではないかと思ったんです。
私自身は鴨川市内の居酒屋に飲みに行くのが好きで、地元の人たちともよく話しをしていました。すると、街のネガティブなことが話題に上ることが多く、街全体を良くしていくためには何が必要なのかと考えるように——。そこから数名の医師や看護師でグループを作り、まちづくりを模索し始めました。そして、特に人口の少ない街では、医療だけでなく教育や産業などさまざまな分野の人たちと協力していくことが重要であり、全てが連関して良くなっていくことが、患者さんや地域住民の方の幸せにつながるのではないかと感じたのです。
似たような考えで取り組んでいる人を探していたら、志摩市民病院の院長を務めていた江角悠太先生を知りました。江角先生は、自治体病院の経営改善に尽力されるとともに、若い医師に病院長を経験させたいという強い想いも持っていました。冒頭に話したようにマネジメントや教育に興味を持っていたので、その考えに共感。
「病院長養成コースをつくりたくて、副院長として勤務しながら一緒にカリキュラムづくりもしてくれないか?」とお誘いを受けた時、自分の目指す方向と重なり、次の大きなチャレンジにもなると思い、志摩市民病院の副院長になることを決めました。
—マネジメントへの興味はお持ちでしたが、決断するまでには悩みませんでしたか?
もちろん非常に悩みましたし、周囲からはかなり反対されましたね。救急医として認知され始めて、講演や執筆依頼をいただく機会も増えていたので「これまでのキャリアを捨てることになる」「なぜ救急から離れるんだ」という声も多くありました。
また、志摩市民病院は急性期病院ではなく、地域包括ケア病棟と療養病棟の病院。私自身も、臨床医としての今後のキャリアに不安がなかったと言えば嘘になります。
—では、決め手は何だったのですか?
志摩市民病院の職員たちの熱意です。たった一度の見学にもかかわらず、「一緒に働けるのを楽しみにしています」といったメッセージの寄せ書きをくださったんです。そこまで求められていることに心動かされましたし、それだけ窮地に追い込まれているのだと感じ、職員皆の期待に応えたいという強い気持ちから、志摩市民病院へ行くことを決意しました。
—実際に志摩市民病院では、どのような経験をされましたか?
まず、自治体病院の必要性を痛感しました。正直、赴任前は、赤字を抱えている自治体病院に対して良いイメージを持っていませんでした。しかし実際に勤務してみると、民間病院では採算が合わない医療を、地域住民のために提供していることを知りました。
また、行政のルールに従って事務長が数年ごとに交代したり、新しい企画を実施するにも予算の関係で時間がかかったりと、民間病院とは異なる運営の難しさも経験。看護師不足で病棟を閉鎖せざるを得ない状況でも、閉鎖による赤字やコロナ禍の影響など、複雑に絡み合う問題の中で経営判断を迫られることもありました。
5年ごとに策定が義務付けられている経営許可プランの作成にも携わりました。5年後の地域の人口動態を予測しながら、地域にとって必要な医療機能は何か、病院はどうあるべきかを考え抜く、貴重な経験もしました。非常に難しいことが多かったですが、他ではできない得がたい経験をさせてもらったと思います。
また、教育は力になることも改めて感じました。志摩市民病院では年間300人以上の学生を受け入れていて、高校生も含まれています。志摩市民病院での研修では「患者さんを幸せにする」というテーマを与えるんですね。最初は戸惑っていた高校生たちも、徐々に高齢者と打ち解け、病状や人生について深く理解し試行錯誤を重ねて、色々な提案をしてくれます。ある学生からは、血糖値を気にして甘いものを食べることを遠慮している末期がんの患者さんに、低糖質のマフィンをプレゼントしたいと提案がありました。試作品はちょっと甘さが控えめすぎましたが、患者さんは涙を流しながら喜んでいました。
その患者さんは2週間後に亡くなったのですが、亡くなる前日に「マフィンをくれた子に会いたい」と希望され、ビデオ通話で再会することに。昏睡状態だったのですが、手を振りながら「幸せになれよ」と声をかけ、「最後に“孫”に会えてよかった」という言葉を残して亡くなりました。そして、その高校生は「人を幸せにするために栄養士になる」と、将来の夢を見つけていました。
研修した病院や地域が気になるからと、再び遊びに来てくれる学生も結構多いんです。病院での教育活動と職員たちの熱い思いが、病院に若い人を呼び、未来の医療従事者を育てる。育てた人が、志摩市・志摩市民病院を「ふるさと」と思って帰ってきてくれる。このような教育の力を、改めて実感しました。
◆挫折しかけた初期研修、救ってくれた救急医の言葉
—日下先生は学生時代、どのような医師像を思い描いていましたか?
医師を志したのは、病気を患った祖母の存在が大きく、当初はどんな悩みにも寄り添える医師を目指していました。ところが医学での授業は想像とは異なり、試験の成績も振るわず「自分は医師に向いていないのではないか」と悩んだ時期もあって——。そんな時、予備校時代の友人に誘われて参加した家庭医療の勉強会が、大きな転機となりました。
当時はまだ家庭医療を志す学生は少なく「将来がない」「そんな道を選んでも……」と、否定的な意見が多かったです。本当にそうなのか、自分の目で確かめたいという一心で、国内外問わず、家庭医療を実践している病院や地域を見学。特にイギリスでは、日本の家庭医に相当する「General Practitioner(GP)」という制度を国が整備し、医療システムと社会が密接に連携している点に感銘を受けました。そこから医療の視点だけでなく、社会をどうしていくのかという視点や政策的な視点も持っているような医師になりたいと考えていましたね。
—初期研修先には、亀田総合病院を選ばれていますね。
総合診療を深く学ぶとともに、中規模病院や小規模クリニックなど、さまざまな医療現場を経験できる点に魅力を感じ、亀田総合病院を選びました。亀田総合病院では、熱意あふれる指導医や尊敬できる先輩医師、優秀な同期に恵まれ、なかなか他では味わえない環境で研修を積むことができました。しかし一方で、優秀な同期と自分を比較してしまい、挫折しかけた時期もあって——。
そんな時、救急科にいらっしゃった野田剛先生から「先生の夢はなんだ?」と、初めて自分の夢を聞かれたのです。優秀な同期に埋もれて期待されていないと思っていた私は、初めて「目の前に困っている人がいた時、急性期から慢性期まで診療できる医師になりたい」という夢を打ち明けられたんです。野田先生は、私の夢を真剣に受け止め、研修目標の設定や研修内容、指導医への助言まで、親身になってサポートしてくれました。
野田先生のおかげで、何を勉強したらいいのか明確になりましたし、人と比べなくていいこと、自分は今のままでいいことに気づかされました。そして、野田先生の「世界を変えなさい」という言葉は、今でも私の原動力になっています。
世界を変えると言っても、世界中を変えるような大それたことではありません。自分の家族、職場、住んでいる街など、自分が「変えたい」と思う場所であれば、どんな規模の場所でも良い。でも「ここをちょっと変えたい」と思うことが大事であり、変えるためにアクションし続けることが自分の性にも合っていることにも気づけたのです。
私が2年間の初期研修を終えた時、野田先生が安房地域医療センターの救急科を牽引することに。救急のトレーニングも積みたかったですし、同センターの救急科が深刻な人手不足だったので、何か力になりたいと思い、1年間安房地域医療センターの救急科に在籍しました。その後、亀田総合病院に戻り、救急医療の現場で経験を積む一方でリハビリテーション科や緩和ケア科、総合診療の外来、在宅医療など、さまざまな診療科をローテーションさせてもらい、幅広い知識と経験を身に付けることができました。
◆フリーランス医師として、地方病院の運営支援に携わる
—2024年4月からは拠点を移されたそうですね。
家の事情で三重県志摩市を離れて千葉県南房総に拠点を戻しました。現在は法人を立ち上げ、複数の地方病院の診療、運営支援や経営改善支援・地域づくりに携わっています。ありがたいことに千葉県だけでなく、埼玉県、東京都、山形県、宮崎県など日本各地の病院で、フリーランス医として診療・経営支援を行なっています。
単なる経営コンサルタントとして、月に数回訪問して経営層と意見交換するのではなく、現場で病院のニーズに合わせて、救急や外来、在宅医療など診療も行い、医師や看護師、その他スタッフと直接コミュニケーションを取って、現場の声を施策につなげ、管理職の意見を現場につなげるような仕事をしています。また、病院が地域にとって本当に必要な医療を提供していくためには、病院の中だけで物事を考えるのではなく、地域住民の声に耳を傾けることも重要。病院内外の声を拾い上げながら、地域から必要とされる病院になるための改善策を一緒に考えるようにしています。
興味深いことに、地域が違っても病院の規模が似ていると、抱えている課題は共通していることが多いんです。志摩市民病院や支援している複数の病院勤務での経験を活かし、「この解決策は効果があった」「これはうまくいかなかった」「自治体との交渉では、こんな伝え方が効果的だった」など、具体的な事例を交えながら、各病院の課題解決を支援しています。
実際には、診療や経営相談の延長として、首長向けに地域での病院のあり方の講演を行ったり、病院祭を開催して地域と病院をつなげたり、研修プログラム作りのお手伝いをしたり、地域の街づくり会社と連携をしたりと内容は多岐に渡っています。しかし最初にお話ししたように、人口減少の町で必要と感じていた、医療だけでなくさまざまな分野の人たちと連関しながら地域・病院を作る芽のような仕事になっているなとワクワクしています。
—今後の展望はどのように思い描いていますか?
病院の経営改善の過程で大事にしていることの1つに、地域に出ていくことがあります。近年、医療者が地域に出て行くことや、まちづくりに関わる活動の重要性は認識されつつありますが、具体的な成果を数値で示すことが難しいのが現状。労力もかかるので「本当に効果があるのか?」という疑問の声も少なくありません。そのため、さまざまな活動の効果を客観的に測定し、データに基づいて効果を可視化することで、より効果的な施策を普及させていければと思っています。
また、もっと医療者が土地や所属に縛られず、自由に働ける環境を作れたらなという思いもあります。所属先の事情によって、キャリアを自ら自由に選べていない医療者は、意外と多いものです。ですから、医療者が自分のキャリアプランに沿って、働きたい地域や時間、働き方、学び方を自由に選択しながら社会貢献ができるような医療者をサポートできる制度も整えていきたいと思っています。
反対に支援に入っている病院には、私たちのように地域・病院をよくしたいという思いのある医療者を起爆剤として使ってもらうと同時に、自分たちで良い人材が集められるよう、改善すべき点を考え一緒に取り組んでいく。そうして、働く側・雇用する側双方にとってミスマッチのない状態で採用に至る仕組みづくりに取り組みたいですね。
また、これから日本のへき地はさらに少子高齢化、人口減少、都市部への人口流出が進み、自治体の存続も危ぶまれるようになっている現状を実際に見聞きします。日本の田舎地域から、医療だけでなくさまざまな分野と連携しながら、個人としても会社としても、医療者+αの働き方として、田舎地域で生じている課題に対してアクションを起こしていければと思っています。入り口は医療ですが、地域住民も医療者も、一人ひとりが「ふるさと」と思える地域を大事にできるような社会にしていけたらと思います。
—キャリアに悩む後進に向けてメッセージをお願いします。
私の好きな言葉に、坂本龍馬の「世の人は われをなにともゆはばいへ わがなすことは わのみぞしる」という言葉があります。周囲の人たちはさまざまな意見を言うかもしれませんが、最終的に自分が何をしたいのか、どんな人生を歩みたいのかを決めるのは自分自身です。
医師のキャリアは多様化しているからこそ「この道を選んだら終わり」ということはありません。周囲の意見を鵜呑みにするのではなく参考にしながら、自分の心の声に従って進んでいけば、それが結果的に、自分が本当にやりたかったことにつながっていくのではないでしょうか。
(インタビュー・文/coFFeedoctors編集部)※掲載日:2024年12月3日