◆発達障害も「あるがまま、お互いさま」の地域社会とは
―現在はどのような事をされているのですか?
筑波大学人間系障害科学域で教員として発達障害に関する研究と教育を行っています。研究内容は、発達障害の心理学や医学に関することではなく、どちらかというと社会小児科学・福祉的な内容です。発達障害の人が住みやすい地域社会とはどのようなものか、実際にその社会をつくるのに何が必要かという事を研究しています。
発達障害にかぎりませんが、すべての「障害」と呼ばれる状態は、地域社会との関係性の中で生み出されるものだと考えています。発達の偏りや未熟性を持つ子どもを「発達障害」としてくくりだす考え方は社会が生み出したものであり、地域社会のありようによってその考え方・定義も変容しうるものです。地域社会に「あたりまえ」のように存在する状態で、あたりまえのように支援できる体制があれば、その子の発達の偏り・未熟性はもはや「障害」ではありません。その子の個性あるいは「持ち味」のようなものととらえることが出来るようになるはずです。そのような地域社会が果たして実現可能なものなのか、障害を生み出しやすい社会とそうでない社会の違い、障害支援を中心にした福祉のまちづくりについて研究したいと考えています。
―研究をされている中で感じる課題は何ですか?
ここ10年ほどで「発達障害」「自閉症」「インクルージョン」など言葉の認知度は高まってきていると思います。しかし、どうも言葉だけが先走っていて、本当の意味でその子どもたちや家族が抱えている困難や、日常生活で困っていること・必要と感じている支援については理解が進んでいないのが現状です。当事者のニーズと支援の間にはズレが生じているのではないでしょうか。
小児科医や精神科医の間でも、発達障害という言葉は知っていても的確に診断できる医師は(もちろん増えてはいますが)まだ少数派です。また、仮に診断ができたとしても、それでは「自閉症」とはどういう状態で、どのような困難を抱えていてどのような支援が必要なのかを的確に保護者や関係者に説明・情報提供し治療や経過観察できる医師も多くはありません。発達障害の発見から診断、診断から治療・支援には多くの専門家がかかわる必要がありますが、その連携も十分ではなく、結果的に多くの発達障害を持つ子どもが地域社会で「生きにくい」状況が発生しています。
―先生の考える理想の地域とはどのようなものですか?
発達障害に限定するのではなく、あらゆる障害を持つ人が、もちろん必要な支援をうけながら、その人の役割やその人の持つポテンシャルを発揮しつつその地域に自然と溶け込んで生活している、どんな人でも「あるがまま」で存在できる、そんな地域社会というのが理想です。
発達障害というのは、人との関係性、地域社会との関係性で定義されてくるものです。発達の偏りを持っている、コミュニケーション障害や自閉症などいろんな特徴を持っている子どもでも、「これは障害だから支援をする対象なのだ」というとらえられかたではなく、「あるがままでよい」「あるがままでいられるように、当たり前のようにお手伝いする」というような、理解と寛容と支援が空気のように存在する社会がいいと思うのです。幻想かも知れませんけどね。
◆「自閉症、で、それが何?」東ティモールで経験したこと
―なぜそのように考えられるようになったのですか?
東ティモールの大使館医務官をしていた時に、非常に強烈な体験をした事がきっかけです。私が赴任した2008年当時、東ティモールでは大統領と首相が同時に襲撃されるような国内が混乱している時期で、発達障害に限らず障害児・者への支援体制はまだ十分に整っていない状態でした。
そんな中、現地の病院に勤務する知人から、発達障害がありそうな子どもの診察を頼まれました。ティモールの山間部で保健医療活動をしているNGOに所属する夫妻の3歳になる子どもが、まだ言葉が出ず非常に落ち着きがないということでした。まだ若い夫婦に連れられてやってきたその子どもを診て、すぐに自閉症と診断できました。自閉症だということはわかったのですが、ここではたと困ってしまいました。東ティモールには発達障害を療育できる専門的な施設はなく、両親は仕事の都合上まだ国に帰る訳にはいかず、この子のケアをどうしようかという話になりました。
その両親は現地のメイドを雇っていて、仕事で不在の間、子どもの世話をしてもらっていました。子どもに接する時間が最も長いのはそのメイドさんなので、まずはメイドさんに自閉症の事を伝えて、子どもの状態を理解してもらい、出来れば療育的な働きかけをお願いしてみよう、と考えたのです。メイドさんのところに行って、私は「この子は自閉症で、自閉症というのは発達の障害で言葉が出なくて…」と一生懸命伝えました。メイドさんは、日本人の医者だという変なおじさんによる奇妙な現地語説明をにこやかに聞いていました(ティモールの人は温厚で寛容な人が多い)。私がひととおり話終えると彼女は言いました。「わかりました。自閉症ですね。で、それが一体何だというんです?」
彼女は、「この子は自閉症だかなんだかはわからないけれど、日中ずっと一人で遊んでほとんどこちらの手を煩わせることはない、規則正しい生活をしているし、ご飯の時間になったらご飯を食べ、お昼寝の時間にはお昼寝をする。言葉は話さないけど外国の言葉は私もわからないのでかえって身振りのほうがいいし、危ない処には行かないし何の不都合も感じていないのだが何をしてやればいいのか」と言うのです。それを聞いた時、「ああ、そうか、何かする・してやる、ではなくてそのままでいいんじゃないか」と思いました。われわれが自閉症だなんだと騒いでも何の意味もない、メイドさんにとってはそのままの子ども以外の何者でもないわけです。発達の障害があろうがなかろうが、その子はあるがままでそこに存在していて、その存在を受け入れている人がいて、受容できる環境(社会)が当たり前のようにそこにあるという、そのことに気がつき驚きました。
またある時、近くの村の村長に、村の中に障害者(現地語でaleijaduといいますがこれはポルトガル語由来の単語です)がいるかと聞いたところ「うーんいるかな、いないかな」と曖昧な答えが返ってきました。では手や足が不自由な人はいるかと聞くと、「ああいるいる」と。つまり「障害者」という言葉がいったいどういう状態の人をさしているのかという定義がないのです。東ティモールではポリオの後遺症が多いのですが、歩けない人たちは家でタイスという織物を織ったり日用品を木工で作ったりしています。耳が不自由な人も畑仕事をしますし、脳性麻痺のある女性も結婚して子育てをしていました。もちろんさまざま不自由なことはありますが、地域でちゃんと役割を持ち、地域で支援されながら生活しているのです。
東ティモールでは、発達の偏りや障害がある人たちが、住む場所や生活を制限されることなく地域で受け入れられ、地域の中で生活し、なおかつ役割を持っていました。また、地域の人たちも、障害の特性を意識してかしないでか、ごく自然に当たり前のようにと手助けをしていて、どんな人も地域社会の中に溶け込んでいる、一緒に生活している、という姿がありました。それを目の当たりにしたとき、これが地域社会の本来あるべき姿ではないかと思ったのです。障害や病気を持つ人を、診察室の中だけで、あるいは医療・医学という視点だけでみていた自分が恥ずかしくなりました。
◆キーワードは「理解と寛容」、「お互いさま」
―その社会の実現のためにできる事はありますか。
今の日本ですぐに東ティモールのような状態を実現するのはいろいろな意味で難しいですが、まずは多くの人に発達障害について知ってもらい、それを理解してもらうこと、そして今はやりのダイバーシティ、多様性に対して寛容な姿勢や考え方を持ってもらうことだと思います。発達障害に関する単なる啓発ではなく、もっと身近な存在として発達障害を持つ子どもを理解してもらうこと、「発達障害の子どもってこんな特徴があって、こんなことに困っているんだ」ということをまず知ってもらうことです。それを「知っている」ことが「寛容になる」ことにつながりますし、では自分にはどんなお手伝いができるか、ということを想像し工夫することができると思うのです。
今は、まず身近なところからと考えて、大学の公開講座やセミナーで発達障害と地域社会に関する勉強会や講演活動を行っています。また実際に保育園や幼稚園に行き、現場の支援者たちが抱えている悩みに対して発達障害の知識を共有しながら支援の方法を伝えたり、発達障害親の会の会合にも積極的に参加したりしています。今後は要請があればタウンミーティングや支援者養成塾のようなものも開催する予定です。
もう一つは、「お互いさま」の地域社会をめざした研究です。発達障害を持つ人はさまざまな支援ニーズがありますが、支援を受けるだけではなく支援を提供するポテンシャルを持っていると考えています。今は「支援する側」と「支援される側」という構造があって、発達障害を持つ人はもっぱら「支援される側」ということになっていますが、発達障害を持つ人が発達障害の支援をしてもいいし、発達障害を持つ人が健常(と言われている)人たちを支援してもいいと思うのです。当事者の持つ支援ポテンシャル、あるいはレディネスといったことについて研究していこうと考えています。
発達障害はスペクトラムです。発達障害の特性とされている「コミュニケーション」や「社会性」について、私たちはだれもが多かれ少なかれそれぞれ困難を感じているはずですし、「こだわり」だってあります。つまり私たち人類はみな発達障害スペクトラムの特徴を持った当事者であるとも言えるわけです。当事者の当事者による当事者のための支援、抱える困難もお互いさま、できる支援もお互いさま、と考えることができればもっと住みよい社会になるのではないかと思っています。