◆ミャンマー・日本の課題感から始まった「八角平和計画」
―現在の活動について教えてください。
ミャンマーの山岳少数民族やベトナムの製薬・伝統医療薬品業界、沖縄の研究者、日本ジェネリック医薬品・バイオシミラー学会の方々と共に、「八角平和計画」というプロジェクトを進めています。「八角平和計画」とは、タミフル(原薬名:Oseltamivir)の元となる香辛料「八角」を栽培・収穫し、中間体である「シキミ酸」を抽出、インフルエンザパンデミックに備えて廉価にタミフルを作ろうという計画です。というのも、2023年に第三世代のタミフルの特許が切れ、ジェネリック医薬品としてさらに廉価に製造が可能となり得るからです。この計画の根幹には、「シキミ酸」とその原料である「八角」の不安定供給及び価格の乱高下への問題意識があります。
3年前から八角の結実が確認できていたのですが、コロナ災禍による移動やロジスティックの制限や、2021年に勃発したミャンマー内戦によって植林地エリアで戦闘が激化し、手入れができない状況が起きています。しかし収穫できている地域もあるので、そこはなんとか続けて、雇用や収入の創出につなげていきたいと考えています。
―どのような経緯で「八角平和計画」の活動を始めることになったのですか?
2008年ミャンマーで、一晩で15万人が亡くなるサイクロン「ナルギス」が発生しました。その数年前に、国境なき医師団のメンバーとしてミャンマーでの医療支援活動に従事した経験があったので、「ナルギス」の人道支援活動を独自に始めました。2010年には、被災地復興支援・移民被災者復興支援を始めるため「一般社団法人 Barefoot Doctors Group」という団体を設立。翌年に東日本大震災が発生し、一時、日本での被災地支援活動をしていましたが、その後、日本財団とミャンマー医師会の共同事業である「ミャンマー少数民族元紛争地域プライマリ・ヘルス・ケア振興プロジェクト」の顧問を依頼され、ミャンマーでの活動も再開しました。
このように20年近くミャンマーに関わり続けている一方で、東日本大震災後、国立保健医療科学院 健康危機管理研究部に客員研究員として所属し、日本の保健医療行政職員(各地保健所長や都道府県・市町村の災害医療対策責任者)に対して、スフィアプロジェクト(SPHERE Project)を中心とした災害対策・教育を広めると共に、国内外、特にASEANの健康危機管理問題やパンデミックも含めた災害に関する研究を行っていました。
その中で、日本の医薬品製造業界の脆弱性、特に感染症に関する医薬品の供給体制が危機的状態にあると感じていて、日本の課題、ミャンマーの課題の両方の観点から「八角平和計画」を始めました。
(SPHERE Project:https://www.janic.org/activ/earthquake/drr/sphere/sphere_project.php)
(スフィアハンドブック:chrome-extension://efaidnbmnnnibpcajpcglclefindmkaj/https://jqan.info/wpJQ/wp-content/uploads/2019/10/spherehandbook2018_jpn_web.pdf)
◆国や地域で「人の命の価値」が異なる現実
―そもそも、なぜ医師を目指されたのでしょうか?
私は父方が台湾からの移民三世で、幼少期アメリカに住んでいたこともあってか、日本社会に違和感を抱き、若い頃から海外で働きたいと考えていました。加えて、祖父・父が医師で「医学よりも、幅広く言語を学んだほうが将来のためになる」と言われていましたが、多くの言語を学ぶのも大変です。それなら、医師という「言語を介さないコミュニケーション技術」を身に付けたいという想いで医学部入学を志しました。
患者さんの中には言葉を話せない方や、たとえ話せても認知症で、自分の意見を言うのが難しい方もいらっしゃいます。そういう方を五感で確認し、最善の対応をする――。医術はそんな言語を介さない「コミュニケーション技術」のひとつだと思うのです。
―医学部卒業後、麻酔科に進まれたのはなぜですか?
全く言語を介さない医術、バイタルのみで患者のボディーの声を聞く麻酔科で、医学部入学前に志した「言語を介さないコミュニケーション技術を身に付けたい」という目標を達成するためです。結果的にそこでは、医療過誤事件から言葉によるコミュニケーションの大切さと、ボランティアとして働くことの覚悟を学びました。
琉球大学医学部を卒業し麻酔蘇生科に入局、研修医として勤務していた時に、骨髄移植ドナーの方からの血液幹細胞採の採取手術で医療事故が起こり、極めて危険な状態に陥らせてしまいました。この医療事故は手技そのものや、麻酔を行っていた私を含めた施術者の技量や経験にも当然問題がありましたが、それらと同等もしくはそれ以上に、ドナーとのコミュニケーションに問題がありました。
当時、インフォームドコンセントは主として外科と患者間で行われるものであり、外科手術に従属している麻酔行為を行う麻酔科独自で取る必要はないと考えられていました。また、麻酔という医療行為による副作用は極めて重篤なものもあり、ごく稀にしか起こらないものの、そのリスクを伝えることで、外科医が丁寧に築き上げてきた信用の上での同意(インフォームドコンセント)を一気にひっくり返しかねません。そのため、麻酔科にインフォームドコンセントは浸透していませんでした。
それでも私は研修医1年目から独自の文脈とコミュニケーション方法を考え、決心した患者さんの勇気を損なわないように、麻酔のリスクを説明していて、そのドナーの方にも同様に説明していました。ところがその方への手術では、私以外の麻酔科サイドは「安全です」としか伝えていませんでした。下手にリスクを伝えて、手術を受けないという決断に至れば、救えたはずのレシピエントの命を救えない可能性もゼロではないからです。
しかし、どんな医療行為にもリスクは存在するものです。それを正確に、しっかりと伝えること。その上で信頼関係を築き、患者に勇気を与え、皆にとって最良の結果となるように共に歩むこと。誠心誠意コミュニケーションを行うことが、医者の役割・使命であること。手術前は健康でボランティアとして人の命を救うために手を挙げてくださったのですから、そういった方への施術、そしてコミュニケーションを含めた医療行為医療は覚悟をもって慎重にあたらなければならないということを教えられました。
同時に、いくら世のため人のためであるボランティア活動であっても、そしてどれだけ健康であっても「人は突然に亡くなってしまう、事故に遭遇することもある」ということを学びました。それがのちに海外に行く際の自分自身の覚悟につながりました。
―国境なき医師団の活動に参加されたきっかけを教えてください。
琉球大学麻酔蘇生科で研修医として働いていた2001年、アメリカで同時多発テロ事件が起き「西側諸国中心の社会が変わる」と感じたことが大きかったと思います。医学部入学後から沖縄で過ごした8年間に、多くの米軍の友人が家族に噓をついてまで、アフガニスタン・イラクの戦場に赴きました。「戦場とは何なのか?」「一体何が起こっているのか?」「なぜ殺し合うのか?」「その背景は何なのか?」を知りたい。「世界がどうなっているか?」「これからどうなるのか?」を自分の五感で感じ、考えたいと思いました。
自分の体験を通して感じ、考えたことでなければ自分の中の真実とはなりません。そして自分の中での真実でないものは、人に伝えようとしても全身全霊をもってうまく伝えることやコミュニケーションができません。平和な時代に育った私は、今の世界のことを後世に全身全霊をもって伝えることはできない。しかしそれを伝えていかなければならない。人並み以上の好奇心と、人間・社会・人類の将来に対する不安、訳のわからない使命感からであったと思います。研修医時代に経験した医療事故も、この使命感を作り上げる肥やしになっていたかもしれません。麻酔だけでなく救急スキルもひと通り学び、国境なき医師団の活動に参加するようになりました。
最初に派遣されたのがミャンマーです。平和だと聞いていましたが、入国数カ月後に戦争が始まり、大変な状況でした。その後帰国し、大阪の野宿者を対象とした医療施設立ち上げの責任者として派遣されましたが、そのエリアにはさまざまな政治団体や利権を持った方が関わっていて、非常に難しかったですね。なにより“一般市民”の方々の視線が冷たかった。そのような経験から、国や地域、立場で人の命の価値が異なることや医療格差について、強い課題感を持つようになりました。また人間不信・日本人不振に陥り、ナイジェリアやスリランカ、イラク(クルド地方)といった、紛争や自然災害のあった国々に逃げるように赴くようになりました。
―冒頭のお話にあったミャンマーのサイクロン「ナルギス」の人道支援活動は、国境なき医師団の活動ではなく、独自に始められたのですね。
国境なき医師団の活動の中で、既存の緊急人道医療支援に疑問と限界を感じるようになり、大きな組織の一員ではなく、独自の活動を責任を持って行いたいと思うようになったからです。
ナルギスは20メートルにも及び高潮をもたらし、沿岸部の田畑が塩害で使い物にならなくなり、小作労働者は国内移民労働者として、タイ国境のゴム園に働かされていました。当時そこはマラリアの流行地であり、国内移民労働者たちは次々にマラリアに罹患。同時にリーマンショックで世界的に経済が落ち込み、タイに出稼ぎ労働に出てHIVに罹患した人々はタイから戻され、激しい差別の中、職もなく困窮している状況でした。
そこで、地元のハーブやユーカリから地産地消の蚊よけクリームを作り、差別を受けているPLHIV(People Living with HIV:HIV患者/AIDS患者と言う呼称が差別を生むので、世界的にはHIVに罹患した人々をこう呼びます)の人々を労働力とし、マラリアに苦しむ移民労働者、それにより収入が減少していたゴム園農場主を助けるプロジェクトを始めるための準備していたところ、チフスに感染してしまい帰国することに。日本滞在中に東日本大震災が発生し、日本プライマリ・ケア連合学会の東日本大震災支援プロジェクト(PCAT)責任者として陣頭指揮に当たり、その経験を国立保健医療科学院で還元し、現在の活動に至っています。
◆「アンバランス」「 Injustice」に挑戦を
―林氏の活動の原動力はどこにあるのでしょうか?
医師になってから一貫して「Justice is Justice, Injustice is Injustice, the world should be like it(正しいことは正しい、おかしいことはおかしいと言える世の中でなければならない)」という想いが原動力なのかもしれません。
医学部に入学してから「医療とはなんだろう?」「Medicineとはなんだろう?」と調べたり、考えたりしていました。そもそもMedicineとは「Medi=中間」にするもの、バランスをとるもの、という意味でしょう。人の健康を構成する要素がバランスを崩し病気となる。そのバランスをとるものが「Medicine=医療」であると私は思いました。そして「バランスが取れている状態=Justice」で「バランスの取れていない状態=アンバランスな状態=Injustice」を「正すもの=バランスの取れた状態に戻すもの=Medicine」であり、「Medicine Man(バランスを取る人・術者)」にならなければ、という思いで医学部を卒業しました。
国境なき医師団では世界、社会、そして組織のInjusticeを目の当たりにし、医学部卒業時に気付いたバランスを取る者、ヒト・人間・社会・世界の「Medicine Man」になっていこうと思いました。東日本大震災発生時には、PCAT責任者として現地に赴いてコミュニケーションのハブとなり、被災地支援の「Medicine Man」として微力ながらも貢献させていただきました。その経験を国立保健医療科学院で人に伝え、教え、後輩に残す縦のコミュニケーションをしていきながら、より大きな世界のアンバランスやInjusticeに気付き、「Medicine Man」として挑戦していくことになりました。それが「八角平和計画」をはじめ、現在取り組んでいることにつながっています。
―今後の展望について教えてください。
現在、国内で販売されているほとんどのジェネリック医薬品の原薬は日本製ではありません。これは世界に流通しているジェネリック医薬品・エッセンシャルドラッグも同じ状況で、主に中国とインドでの製造に依存していて、バランスが良くない状態なのです。こうしたジェネリック医薬品・エッセンシャルドラッグのアンバランスなサプライチェーン(原材料調達、製造、在庫管理、物流、販売の一連の流れ)は、人間の安全保障となるプライマリ・ヘルス・ケアが致命的な状況になり得る可能性を秘めていると考えています。
現代医学は、薬物療法を中心に成り立っています。それも日本も含め世界の圧倒的多数の人々は、遺伝子治療や再生医療・放射線療法等の最先端治療ではなく、ジェネリック医薬品・エッセンシャルドラッグを用いたプライマリ・ヘルス・ケアで健康を維持し、疾病治療の恩恵に預かっています。これらの根幹をなす医薬品が、アンバランスなサプライチェーンのもとに成り立っている現在の状況は、政治的に利用されることもあり得ます。
この世界的な不均衡は、新自由主義がもたらす産業構造的な欠陥から発生したものだと思っています。安い人件費・環境規制のゆるい地域に利益率の低いジェネリック医薬品・エッセンシャルドラッグ原薬・中間体製造を押し付けてきたツケが現在の状況を作り出しました。かといって、解決策を示さずに現状をありのままに報道すれば、人々の恐怖をあおってしまう危険性や、国際政治の問題から何らかの圧力がかかり、一般の人々に情報が共有されなくなることも十分考えられるでしょう。こういったことにならないように解決策を示していこうとする取り組みが「八角平和計画」です。
傭兵依存化経済、ケシ栽培・麻薬製造依存経済、森林・自然破壊依存経済といった形を取らざる得ない途上国の人々、そして売春や移民労働も含めた人身売買経済の中に落とし込まれた構造的暴力の犠牲者の手で、薬の生産までを行なえる環境を整える。人の身体・精神・社会と霊魂の拠り所を破壊する職業・産業ではなく、人の命を救う・健康に生き・寿命を全うするといった誇りを持てる職業・産業を創造する。そうして人間の安全保障の要となるジェネリック医薬品・エッセンシャルドラッグのサプライチェーンの多様化を図り、国家や地域の無用な不安感を払拭し、ヒト・人間・社会・世界の平和を創造することが目標です。そのために国際的なバランス調整に貢献し、医療においての安全保障を各国が力を合わせて構築できる世界の創造を、目指していきたいと考えています。
実は以前の日本では薬を原料から製造しており、技術者はいるのです。日本酒などと同様に、後継者がいなくなっている問題が起きています。この課題、縦のコミュニケーションの断絶問題をどうにか解決する方法の1つの手段として、日本の技術を発展途上国に持っていき、世の中のアンバランスやInjusticeに挑戦していきたいと考えています。
(インタビュー・文/coFFeedoctors編集部)※掲載日:2023年6月9日