米国留学で考え方が一新された
-現在、ファイザー株式会社のどのような部門で働かれているのですか?
メディカル・アフェアーズという部門で、統括部長を務めています。メディカル・アフェアーズでは、薬をどのような形で患者さんに提供し活用してもらうとその薬の価値が患者さんにとって最大化できるかということを考え、それに必要なエビデンスなどを提供します。
ただ売るだけでなく、薬を適切に治療に使ってもらうことが製薬会社の任務です。直接的な医療従事者ではありませんが、これは医療の中で重要な部分を担っていると考えています。そのような役割を製薬会社がきちんと果たすために、メディカル・アフェアーズが薬を患者さんにどう役立たせるか、社会にどう貢献できるかという部分の責任を担っているので、非常にやりがいを感じています。
ただ最初からこの部署の価値を理解していたわけでもなく、医師になって製薬会社に行こうとも思っていなかったんです。
-そもそも医師になろうと思ったのはなぜですか?
私は長野県出身で、「女の子は勉強より、結婚して良妻賢母になることが重要」という昔ながらの考えを持った母のもとで育ちましたが、その考え方でいいのだろうかという思いや、やはり一度は東京に出てみたいという思いがありました。そこで、医者と結婚してほしいと願う母を「私が医者になったら普通に医者と結婚できるでしょ」と説得し、東京医科歯科大学の医学部に入学し、東京に上京してきました。そのため入学当初は、あまり医師になるという高い志があったわけではありませんでした。
しかし入学後、米国に2カ月程語学研修に行った時に、女性が“ビジネスウーマン”として活躍していることに衝撃を受け、また、学年が進むにつれて、周囲の意識の高さに徐々に影響を受けていきました。そして卒業時には、人生のモットーとして「自分ができる限りのことを全部やりたい。生まれたからには自分の命・身体・思考それら全部をできる限り活かし切って死にたい」と考えるほど、大きく変化していたのです。
-では、神経内科を選んだのはなぜですか?
脳の奥深さに惹かれたからです。お豆腐のような臓器が“考える”という行為をつかさどっていることに魅了されたこと、また、人間の臓器の中で一番複雑で未知の世界がまだまだあり、やらなければならないことがたくさんあると感じたことから、「医師=神経内科医」というくらい、神経内科への想いが強かったですね。
そのため神経内科に入局し、都立神経病院等で6年間勤務しました。3年目の終わりに結婚し、皮膚科医である夫が米国に留学する時、私も米国へ留学することを即決しました。当時は神経内科医としての仕事に非常にやりがいも感じていましたが、振り返ってみると、この時期にアメリカで過ごしたことが、人生の大きな転換のきっかけになったように思います。
社会に対して大きな転換を生み出したい
-米国留学ではどのようなことをなさっていたのですか?
米国では、最初は神経研究に携わりましたが、ご縁あり途中から基礎免疫学の研究室に入れていただき、CD83というモレキュールの機能を解明しました。自分の研究の成果が雑誌「cell」に掲載されたことは、非常に光栄でした。
免疫の研究室の米国人ボスは、その研究テーマが専門でもない私に大役を任せてくださったり、「うちのラボで一番優秀な人にやってもらっているから大丈夫だよ」と公言してくださったりしたので、とにかく必死に成果を出さなければと、寝る間も惜しんで研究に打ち込みました。
-帰国後、一度は臨床に戻っていますが、製薬会社に行こうと決めたきっかけを教えてください。
最大の理由は、神経疾患の治療薬の開発に携わって患者さんに貢献したいというのがありました。
本当は帰国後も研究を続けようと考えていましたが、日本の研究環境では思うようにできないと感じ、医局に戻ったところリハビリテーション科に配属されました。ところがそこでは、患者さんに良いと思ったために新しいやり方を提案したら「ここではこんなやり方はしない」と、新しい提案がすぐに却下されてしまう環境でした。そんな日本の慣習的な面がとてもやりにくく感じるようになったんです。
私は留学中の経験から、大きな転換を生むことを一生懸命やることに生きがいや楽しみを見出してきたと気付きました。新薬開発はその可能性を秘めいていますし、ちょうど神経疾患の薬の開発に携われるかもしれないチャンスが巡ってきたので、迷わず製薬会社への就職を決めました。
また、私は子どもがいても他の人と同じように仕事するつもりでいたのに、「無理しないで楽な仕事でいいよ」という対応をされたのが非常にショックでしたね。子どもがいようがいまいが、男性であろうが女性であろうが同じように機会を与えられ、同じように成果を求められる環境に行きたいという思いもありました。外資系製薬会社には、そういう魅力もありました。
自分の価値を最大限発揮できる場を探す
-ご自身の専門分野外での研究や、製薬会社入社など、今までと全く違う分野に飛び込むときに、迷わず進める秘訣はどこにあるのでしょうか?
今の自分にとって何が一番大事か、本当に自分のやりたいことは何かということを突き詰めて考えることですね。
私は決断の時、その時その時の価値観に基づいて決めていきます。家族や子ども、仕事や会社や会社の仲間、患者さんなど全て大切なものは多くあります。ですが、その時によってプライオリティが変わっていて、それを決定付けるのは、「その時の自分の価値を最大限発揮するには、どの選択が最も効果的か」ということです。
このようにプライオリティを変えながら道を選びキャリアを積めたのは、自分で考えて行動しないと、自分のやりたい道には進めないということに気付いたからです。例えば「東京に出てみたいから、そのためには受験勉強、塾、母を説得する理由が必要だから・・・」と、自己実現のために1から考えて行動しないといけませんでした。そして、自分で選択したからこそ、最大限自分の価値を発揮し、最善を尽くさなければという、自分自身への責任感みたいなものがあるのかもしれません。
それが、「自分ができる限りのことを全部やりたい。生まれたからには自分の命・身体・思考それら全部をできる限り活かし切って死にたい」という仕事に対するモットーにつながっています。
-最後に、今後の展望を教えていただけますか?
最初にお話した通り、薬をどのような形でどのような患者さんに使ってもらったら最も効果が発揮されるか、治療に貢献できるかを考え、その視点で情報提供を行うことが、製薬会社の使命です。その責任を持っているのが、メディカル・アフェアーズだと思っています。
しかし設立当初は、本当におまけのような部署で、新薬開発とプロモーションの狭間を埋めるような存在でした。しかしそれでは、本来の「患者さんにとっての薬の価値を最大化して治療に貢献する」ことができないので、社内での地位向上のため、会社のビジネスに部として協力してきました。
主にマーケティング部門や営業部門のサポートで、例えば、薬のベネフィットとリスクを適切に示す新たなエビデンスを創出したり、「このエビデンスはこのように伝えたら、医師が適切にこの薬を患者さんの治療に使える」と医師への伝え方をアドバイスしたりしました。そうすることで、他の部署から認知され感謝され、部署の価値を高めてきました。
今の日本では、「製薬会社=薬を売って儲ける」という印象が強いのが現状です。「この薬は、本当はこういう患者さんに効くのに、儲からないために患者さんへ届けられていない」ということもありますし、製薬会社に都合のよい情報だけを医師に伝えるということも過去に行われていました。
しかし何度も言うようですが、患者さんが薬から最大の価値が得られるようにするのが、本来の製薬会社だと思っています。ですから、そのような流れが少しでもできるように、薬の価値を最大限届けられるようにしていきたいですね。そのためにチームのメンバーが同じ方向性を持って働けるようマネージメントしてくことが、今の私を最大限活かせると思っています。