◆医療が行き届かない途上国のために新薬の研究開発を推進
―GHIT Fundでは、どのような取り組みをされているのですか?
GHIT Fundは、日本政府と国内外の製薬会社、ビル&メリンダ・ゲイツ財団などが資金を拠出して創設した日本発の国際的な官民ファンドです。低中所得国でまん延する感染症の治療薬やワクチン、診断薬の開発に対して投資を行っています。
新薬の開発には莫大な費用が必要です。しかし市場性の少ない、低中所得国向けの新薬開発は、製薬会社にとってリスクが高く、開発に踏み切れない事情があります。そこで当基金が資金を助成し、製薬会社や大学、研究機関などのアイデアや技術を活用する「オープンイノベーション」で研究開発を推進しています。開発された新薬は、WHOや国連開発計画(UNDP)などと連携して無償や低価格で低中所得国に届けられるように努力しています。
グローバルファンド時代にも、低中所得国でのエイズや結核、マラリア対策支援に奔走しましたが、例えば「結核による死亡を2030年までに90%減少させる」という国際目標の達成には、よりよい診断・治療・ワクチン開発がなされなければ難しく、現状のままではあと150年以上かかってしまうとの予測もあります。
さらに最近は薬剤耐性菌も増えているので、それらを越える、よりよい新薬を作らなくてはなりません。それだけに研究開発は容易ではありませんが、この事業を通して国内での研究開発を活性化させ、グローバルヘルスに貢献していきたいと考えています。
―グローバルファンドでの経験が生かされているわけですね。
ドナー政府や財団、NGO、企業などを結び付けて途上国に援助する仕組みづくりも行う点では、グローバルファンドもGHIT Fundも同じです。そのためには、パートナーシップを構築することが必要で、さまざまな組織をコーディネートして、効率的かつ効果的に動かしていくことが求められます。それを可能にする技術や手段は、これまでの経験を通して培ってきたと思います。
―ところで、GHIT FundのCEOにはどのような経緯で就任されたのですか?
正直に言えば、父が大きな手術をして介護が必要になったことが大きかったと思います。ユニセフに8年、グローバルファンドに9年と、計17年も海外にいたので、両親の面倒を見ることができませんでした。もしこのまま海外生活を続けて、その間に両親にもしものことがあったら後悔してもしきれない。帰国するなら今しかないと思い始めていた時に、GHIT FundのCEOのポストが空くから受けてみないかと声を掛けられたのです。
グローバルファンドでの経験から、新薬の研究開発の必要性も感じていました。また、新型コロナウイルスの対応で世界に遅れを取る日本の様子を見聞きしながら、そろそろ日本に腰を据えて母国に貢献すべきではないかという思いも強くなってきて――。日本に帰国しても、グローバルヘルスに関わっていきたい。そう思った時にGHIT Fundの話が来たわけですから、人生は面白いですよね。
◆あえて困難な道を選ぶ
―医学部時代から精力的に海外での緊急援助に携わっていたそうですね。
高校生の時に、アフリカでの医療に尽力したシュヴァイツァー博士の本に感銘を受けたのがきっかけで、アフリカで医師として働きたいと思うようになりました。自治医科大学在学中は1年間休学してソマリアの難民キャンプにボランティアに行ったり、アジアの医学生たちと一緒に緊急援助のNGOを立ち上げたりしてきました。医師になってからは、病院やへき地と言われるような地域の診療所に勤務しながら、年に1~2回は海外の緊急援助に出掛けましたね。
当初は自分が望んだ途上国支援をできていることに充実感を抱いていましたが、しだいに医師としての無力さを痛感するようになりました。なぜなら、現地の状況があまりにも悲惨で、医療以前の問題であることに気付いたからです。
上下水道が整備されず、水の衛生状態が悪い。食糧事情が良くないために人々の栄養状態も悪い。そのような劣悪な環境では、救える命に限りがあります。肺炎の患者を治しても、次は下痢症になって来るし、下痢症を治しても、今度は髄膜炎になって亡くなってしまう。そんなことを何度も経験し、予防という観点から地域や国といった、より大きな単位で医療に取り組んでいかなければと思いました。そこで、米国に留学して公衆衛生を学んだのです。
帰国後は、国立国際医療センター(現・国立国際医療研究センター)で5年間、主に政府開発
援助(ODA)に携わりました。プロジェクトの内容は緊急援助から、技術や無償資金の協力まで多岐にわたります。インドネシアの森林火災や、バングラデシュの竜巻・洪水災害、アフリカ地域でのエボラ熱やエイズの感染症対策、ブラジルの貧困地域の公衆衛生など――。1年の3分の2を海外で過ごしたこともありました。
―その後、外務省、ユニセフ、グローバルファンドと、華々しいキャリアを歩まれています。
このようなキャリアになるとは、想像もしていませんでした。私には「人生の8割は偶然に起こるものなので、自分の計画通りにはならない。むしろその方が思いがけず、面白い人生を歩める」という人生哲学があります。ですから、キャリアについても計画的に行動したことはあまりありません。人との出会いや医療の現場で起こる出来事の中で、自分の興味や関心に任せて動いてきたら、今のキャリアになったと捉えています。
ただ選択を迫られた時は、2つの観点で判断してきました。1つは、自分がワクワクできるものであるかどうか。もう1つは、困難なようにみえても、そこに行けば何か面白い勉強ができるかどうか。
外務省へは民間から初めて登用されるということで、全く不安がなかったわけではありません。しかし裏を返せば、誰もやったことがないから面白いとも言えます。さまざまな現場を経験しながら、グローバルヘルスという大きな流れをつくっていくためには、政策づくりが必要であることも少しずつ分かっていました。ですから、どんな世界が待っているのだろうと、ワクワクしましたね。
ユニセフで、子どもの死亡低減達成のための保健計画や戦略を立てた時も同じです。中でもソマリア支援では、学生時代から援助に行くたびに自分の非力さを突きつけられていました。しかしその思いをバネに「今度こそいい仕事をしてやろう」と思えました。内戦が続く上に60年来の干ばつや、コレラの流行があり、どうなることかと思いましたが、最終的には結果を残すことができ、今思えばあの時の選択は間違っていなかったと思います。
―あえて困難な道に進めば、それだけ大きな壁を乗り越えていかなければなりません。先生はどのようにして越えていかれたのですか?
本や資料などを読み、同じような壁を乗り越えていった先人たちの知恵を学びました。組織の枠を越えてさまざまな方にも相談しましたし、どうしたら乗り越えていけるかをチームで徹底的に議論しましたね。あとは1つの組織だけでは解決できないことも多いので、WHOやユニセフ、NGOなどとも協力しました。自分の組織外との協力関係をコーディネートしていくことは好きなので、その気持自体が乗り越える原動力かもしれません。
◆グローバルヘルスからプラネタリーヘルスへ
―新たに取り組みたいことを教えてください。
アフリカでグローバルヘルス関連のビジネスのスタートアップが少しずつ出ているので、その支援をしたいと考えています。現地のビジネスマンなどを巻き込みながら、援助ではなく、日本とアフリカが共に繁栄していくようなwin-winの関係でビジネスモデルをつくっていければと思います。
また、地球環境を通して、人間の健康を考える「プラネタリーヘルス」にも取りみたいと考えています。海外でさまざまな国を見ながら、気候の温暖化や森林破壊などで地球環境が変化していることに危機感を抱きました。例えば、アフリカのガボンでは、乱開発によって国土の8割を覆っていた森林が失われています。地球環境の変化は、感染症などを引き起こします。グローバルヘルスから一歩進んで地球の健康を考えていくことも重要だと思っています。
―最後に将来を担う若手の医師たちにメッセージをお願いします。
まずは、自分が本当にやりたいことは何なのかをしっかりと考えてみてください。「好きなことを仕事にする」とよく言われますが、何を深め、どんなことを強みにして、どのような貢献をしたいのかを明確にしていくといいと思います。
途中で好きなことが変わっても構いません。大切なのは、自分は何のために生きているのかという価値観を持つこと。つまり、何が好きかという「want」と、何ができるかという「can」、そして自分は何をすべきなのかという「should」「must」の部分を自問自答しながら、ライフデザインしていくことが重要だと思います。
もし苦しい状況に置かれたときは、ラッキーと思った方がいい。どんなに大変でも、その中で何を学べるのか、何を楽しめるのかを追求していくと、おのずと道が開けていくものです。私自身の人生を振り返っても「あの時の苦労があったから、今につながっているんだ」と思います。だから1つのことに悩まず、大きく構えて自分ができることに取り組み、自分をどんどん成長させてください。
あまり計算しすぎず、人生を楽しみながら、時には人生を漂流しながらね。それでいて人生の節目で決断を迫られたときは、自分の価値観を基準に決めていく。そのような生き方をしていくと、楽しい人生を送れるのではないかと思います。
(インタビュー・文/coFFee doctors編集部)※掲載日:2022年12月19日