初期研修での経験から、公衆衛生へ
—医師としてのキャリアをスタートさせた頃について教えてください。
私は1998年に京都大学医学部を卒業しました。私は大学時代、あるいはその前から、地域や専門領域の境界を越えたり、できるだけ多様な人々と接点を持ちたいという性格で、海外の大学病院へ見学に行ったり、各国の医学生と交流したり、日本国内でも医学部以外の人たちと交流したりすることに関心がありました。
臨床研修も全国から研修医が集まる病院で、できるだけ多彩な内容の研修がしたいと考え、神戸市の中央市民病院(現・神戸市立医療センター中央市民病院)の内科で医師としてのキャリアをスタート。内科全般や麻酔科、ICU、救急病棟などをローテーションしながら2年間を過ごし、どの診療科を回っている間も必ず、1次救急から3次救急までを受け入れている救急外来で救急当直もしていました。
当時は阪神淡路大震災の復興期にあたり、医療圏は被災地で、病院のすぐ近くにも仮設住宅がある状況でした。そんな中で社会の縮図である救急外来で感じ取ったものは、健康の社会的決定要因(SDH)の重要性でした。
病歴を聞いていても、多くの患者さんの記憶に震災が深く刻まれていました。被災して家族や仕事、人間関係など大切なものの多くを失い、回復途上にある方が大勢いました。震災で環境が急激に変化し、失業や貧困、社会的孤立に直面し、それらが健康に影響を及ぼしている。そのような人たちを目の前にし、地域の医療連携のはざま、医療と介護・福祉のはざまに落ちてしまう人たちへの対応や予防医療など、社会医学的な側面への問題意識が芽生えてきたのです。
当時はまだSDHという概念は知らなかったですし、患者さんの背後に広がる生活や疾患予防にも目が向いていることが公衆衛生的なマインドだとは自覚できていませんでしたけどね。
—自然と公衆衛生や社会医学に目が向く中で政策立案や行政に携わるため、厚生労働省の医系技官の道を選んだのですか?
医系技官の試験を受けた時には、そこまで明確なキャリアビジョンを描けていたわけではありませんでした。予防も含めた日本全体の医療や健康保険のシステムを誰がどのように決めているのか、あまり明確には理解していませんでしたが、分からないからこそ外から眺めるのではなく実際に自分が意思決定の現場に入ってみたいと思ったのです。
また、医系技官の仕事内容の幅広さや奥深さは全然分かっていませんでしたが、医系技官を経験することは、ゆくゆく臨床医として現場に戻った時に、患者さんに対して多角的なアプローチができるようになるのでは、との思いもあり厚生労働省に入省しました。
当時は事前知識もほとんどなく、新しい経験への好奇心による直感的な選択だったと思います。臨床医としての人生の選択肢を失っている自覚も、それが転職だという感覚もありませんでした。しかし今振り返ると、結局は自分で経験してみないことには分かりませんし、新しい環境で新しい経験をすることで、未開拓の自分のポテンシャルを発見したり、成長するチャンスをもらえることもあります。ですから、この最初のターニングポイントは結果的には良い選択だったと思っています。
行政経験にビジネスの視点を掛け合わせてみたい
—結果的に19年に渡り、医系技官としてさまざまな分野での経験を積まれます。その中で橘先生のキャリアに影響を与えたのは、どのような経験でしたか?
厚生労働省を含め霞ヶ関の省庁では2〜3年以内に人事異動があるのが通例です。私も医療財政、医療体制、疾患啓発、国際保健など、医療や公衆衛生に関わるさまざまな部署を経験し、医療政策に携わる多様な関係職種の方々と出会いました。これら1つ1つの経験が、現在企業で政策の仕事をする上で大きな財産になっています。
一方で、プライベートセクターに移るというキャリアの選択につながったのは、実は厚労省での経験ではなく、他省庁や国際機関など他組織への出向経験です。それらの場所で異なる価値観や組織文化に適応する経験が、新しい環境や価値観への興味と適応力の土台になったと思っています。1つは、法務省で刑務所や少年院の医療制度に関わる仕事、2つ目はWHOでの仕事、そして3つ目はUNAIDS(国連合同エイズ計画)での仕事です。
法務省では、刑務所や少年院の入所者に必要な医療を提供するための仕組みづくりの仕事を経験しました。当時、日本全国約80の刑務所に約8万人の入所者がいて、それらを1つのコミュニティの医療システムとしてみた場合に、入院や手術の施設を持つ医療刑務所にどのような機能と規模を持たせ、通常の刑務所と連携する仕組みをどのように作るかが重要な課題でした。
医療を扱う部署とはいえ、周囲は長年現場で看守や教官の経験を積んできた方々で、規律・秩序の維持や監視が最優先という価値観が深く根付いていました。それまで人々の健康という目的や価値観を当たり前のように捉えていたことに気付かされ、改めて自分の医師としての職業観を再認識できたことは非常にユニークな経験で、異なる組織文化や価値観に対する対応力が芽生えるきっかけをいただきました。
WHOとUNAIDSに派遣されたことも、より一層環境や異文化への適応力を鍛える経験となりました。WHOでは、活動資金のドナーとなる各国政府とWHOの調整が役割でした。ここでは日本の官僚組織で自分に染み込んでいたやり方を捨て、新しいやり方を開拓し適応する試練の機会を得ましたね。頻繁な人事異動を前提とした日本の省庁では、その人の過去の実務経験にかかわらず就いた役職の責任を果たすことが求められます。そのため、必要な情報が個人ではなく役職に自動的に集まってくる仕組みが前提になっています。
ところがWHOをはじめとした国際機関では、ある役職に就いたからといって情報が自然と集まってくるわけではありません。このような環境では、まず自分からコミュニケーションをとり、利他的な精神で相手の成功体験につながるような働きをしなければ信頼を得られません。そして信頼が貯金のように貯まっていくと、初めて正しい情報が得られるようになり、その情報に基づき正しい判断をすることでさらに信頼が得られて、また新たに確かな情報が得られて……という信頼のサイクルが回らないことには、なにも始まらないのです。
当初は、正しい判断をするために必要な背景情報を、誰からどうやって入手したらよいか分からず、地図もコンパスも持たずに森の中を歩き回るような感じでした。情報が得られたとしても、情報の真贋を判断しながら戦略的に物事を進められるようになるには、さらに時間がかかりました。もっとこうすればよかったと思うことは多くありますが、それらの失敗と反省から得た教訓は、プロアクティブに相手の目線に立って行動することで一歩ずつ信頼を築くことでした。これは自分の行動原則として今の仕事に直接役立っていると感じます。
UNAIDSはWHOの直後だったので、国際機関での働き方が若干は身についてきていたとはいえ、他の国際機関あるいは国際NGOとの協働は初めてのチャレンジでした。
HIV/AIDS対策は多角的なアプローチが必要で、公衆衛生を担当するWHOだけでなく、子どもの視点でのUNICEF、女性の視点でのUN WOMEN、就労の視点でのILOなど複数の国際機関が取り組んでおり、UNAIDSはそれらのコーディネート役の機能を持っています。HIVという共通のテーマのもと、大枠では全体の方向性は一致しているのですが、それでも国際機関ごとにプライオリティが異なります。UNAIDSの内部だけでも疫学者出身、人権専門の弁護士出身、市民活動家出身など多様なバックグラウンドの専門家がいました。
HIV/AIDS領域の専門性も途上国のフィールド経験もない私が彼らの仲間として一緒に仕事を進めるには、「とにかく話をよく聞くしかない」と考え、さまざまな人の教えを請いました。組織内外の多くの人々との協働は得難い経験だったと思います。
それぞれの経験から学んだことを、その場にいる間に実践して十分に成果につなげられたわけではないという思いがあり、だからこそ、それらを全て役立てたいと思うようになりました。
—その思いから、外資系製薬企業へ行かれたのですか?
決心できたのは、自分と家族のライフステージに変化のタイミングが来たからだと思います。当時小学校6年生の息子の精神的な成長と自立の程度をみて、中学に上がるタイミングになれば、私が新しい越境体験によって適応できなかったり失敗したりしても、あまり彼の精神状態に影響を及ぼさないだろうと思えたことが1つです。もう1つは私の年齢が40代後半に差し掛かり、残りの職業人生をどう過ごしたいのか真剣に考え始めたことがあります。
異文化に適応する中で自分を発見し成長するという経験を少しずつ重ねてきた結果、残りの職業人生では全く新しい環境に飛び込む準備ができてきた気がしました。これまで与えていただいた経験を自分なりに集結させ、新しい観点で社会全体の健康基盤づくりに挑戦してみたいと思ったのです。
グローバルヘルスと医療政策の経験、そして公衆衛生の価値観を大事にした上で仕事ができる新しい環境はどこかと探した結果、外資系製薬企業の政策部門にたどり着きました。行政機関では、患者さんや国民全体、医療従事者、アカデミア、政治家といった多様なステークホルダーの方々から意見を聞きつつ、制度や政策がそれぞれの視点から見るとどんな影響を生むのか想像しながら医療・健康を見てきましたが、企業の視点から見る経験がほとんどありませんでした。
グローバルヘルスの領域では、パブリックセクターと、NGOなどのソーシャルセクター、そしてプライベートセクターが協働して公衆衛生を推進するプログラムが活発化しています。一方で、日本国内での私の行政官経験では、官民協働の土台となるようなコミュニケーションや関係性が深まりつつあるという実感はなかったので、自分がプライベートセクターに進み、プライベートセクターとパブリックセクターの谷間を埋める架け橋になりたいと思って決断しました。
不確実性を受け入れ、自己発見や成長のチャンスを見つけよう
—政策部門ではどのような仕事をされているのですか?
私の仕事は、自社の革新的な医薬品やワクチンを、それらを必要とする日本の人々により早く、より広く届けられるよう、政策や制度の面からアプローチすることです。立法府や行政府のように直接政策決定に携わることはないものの、製薬企業も医療システムのステークホルダーです。企業の立場で政策に関わるということは、公衆衛生という“論語”と、企業の持続可能な利益という“算盤”を両立させることが求められます。
公衆衛生という判断軸は医系技官と同じで、これまでのキャリアとの共通項があります。しかし、ビジネスのプライオリティも両立する必要があることは新たな挑戦です。無謬性の原則からどうしても離れづらい官僚組織と比較すれば、失敗を覚悟してチャレンジする、環境変化に応じてスピード感を持って変化することが推奨される企業文化だからこそ、思い切って挑戦できることが多々ありますね。
行政から企業に移り、最初の頃は間接的にしか政策形成に影響できない企業の立場で何ができるのか、何をすべきかということを考える転換期だったと思います。次の段階では、政策の実現に向けて必死で取り組みました。ただ、当時は難しいチャレンジに全神経を集中するあまり、会社のビジネスや組織の全体像を理解する余力が確保できなかったと思います。しばらく経って理解が進んでくると、他の部門と有機的に連携するために、より多くのエネルギーを向けるようになりましたね。
そして最近は、ようやく人材育成や組織文化作りに力を入れられるようになってきました。局面に応じた最適なリーダーシップスタイルはどのようなものか、あるいは、チームメンバーが各々リーダーシップを最大限発揮できるために私はどう行動すべきか、ということを日々考えています。自分の足りない点も含めて発見し、変化するチャンスをいただいているので、リーダーシップというテーマについてもチャレンジしていきたいですね。
—若手医師へのメッセージをお願いします。
自らキャリアをデザインしようと思うことは素晴らしいことです。そして、キャリアの選択やテーマを絞るタイミングは人それぞれです。もし人生の早い時期にゴールが設定できなくても、それを悲観する必要はありません。興味の対象やキャリアゴールが絞り込めないこと自体が、特性やポテンシャルの表れかもしれません。
また、私自身の経験から言えることは、計画通りに進まないことが必ずしも悪いことではないということです。新しい環境や未知の領域に飛び込むことで、自己発見や成長の機会を得ることができました。失敗や挫折も含めて、すべての経験が次のステップへの糧となります。ですから不確実性を受け入れ柔軟に対応し、自己発見や成長のチャンスを見つけることが大切です。
人生は青写真通りには進まないことが多いですが、不確実性の中でも自分の特性やポテンシャルを信じて、ぜひ新しい挑戦にオープンマインドで臨んでください。
(インタビュー・文/coFFeedoctors編集部)※掲載日:2024年10月29日