縁の下でiPS細胞製品化を支える
-現在、株式会社ヘリオスではどのような役割を担っているのですか?
ヘリオスではiPS細胞を利用して、さまざまな疾患に対して細胞治療を行うための製品を作ろうとしています。その中で私は、鍵本社長と相談しながらその事業自体の方向性を決めたり、実際に経営上問題となっていることを洗い出して、何から取り組むかを判断したりしています。鍵本さんが外部へどんどん出て行って情報を集めたり、人とのつながりを作ったりしているので、私は内部でiPS細胞の製品化を実現するためのマネージメントを担当しています。
ヘリオスは、もともと理化学研究所の高橋政代先生からiPS細胞由来網膜色素上皮細胞の事業化の話をいただいたことから始まり、その後、細胞製造自動化については大阪大学の紀ノ岡正博先生のもとで共同研究講座を開設しました。さらに2014年には横浜市立大学の谷口英樹先生、武部貴則先生の研究グループと、臓器原基という全く新しい技術につき共同研究も開始しています。技術の発明元であるアカデミアと、実用化を担う当社の橋渡しをすることが、私の役割です。
臨床医から研究者、MBA取得そしてエンジニアリング
-もともとはなぜ医師になられたのですか?
私の父親は有床診療所の院長で、親戚にも医師が多かったため、「将来は医師になって病院を継ぐ」ことが当然という環境で育ちました。しかし私にとって、家族との時間も取れない程多忙かつ入院患者さんの様態を常に気にし、一切遠出をしなかった父親の仕事を、大事だと感じつつも、「自分も同じ仕事をやれる、やりたい」と思えませんでした。「このまま父親と同じレールでいいのか?」という思いから、大学受験ギリギリまで「医学部は受験しない」と反抗し続けていました。
父親とはずっと進学のことで衝突していたのですが、言い争っていたある日、何気なく親父の髪の毛を見たところ、黒く染めてはいるものの根元が全て白くなっていることに気づきました。それを見て父親ももう若くはないことに気づき、ずいぶん苦労をかけたと心が折れて、医学部を受験することにしました。そして久留米大学医学部に合格し、医学の道へと入っていったのです。その後呼吸器内科の臨床医としての道を進むことにしましたが、入局直後、研究室に配属されることになりました。
研究室では喘息と「サイトカイン」という免疫細胞の情報伝達を担うたんぱく質についての研究をしていました。しかし、この研究も何かの役に立つだろうとは思っても、本当に患者さんの元に届くまでの道のりは遠いです。また、理研や東大の研究者と接点を持った時に、自分の研究よりもはるかにレベルの高い研究を、ケタ違いの研究費を使って行っていることを目の当たりにしたことで、自分が今のまま研究をしていても勝てるわけがないと、悶々としながら日々を送っていました。
一方で、臨床医としての力もつけておきたいと思い、研究の傍ら福岡県田川地区の急性期病院の当直アルバイトをさせてもらっていました。そこでの経験が一つの転機となりました。
-どのような形で転機となったのですか?
田川地区は福岡県の北東部にある地域で、かつて炭鉱があり栄えていましたが閉山とともに次第に活気がなくなっていました。私が働いていた当時、治安も良くなく、夜間外来で暴力沙汰が起こったり、睡眠薬をもらうためだけに救急車で来る患者さんがいたり、また不安で帰宅できない独居老人の患者さんに外来で朝まで付き添うといったことも経験しました。
産業が廃れて若者が都市部に流出し、残った人たちは生活力がなく生活保護に頼らざるを得なくなり、コミュニティが壊れていく……。病院に来る患者さんを通してその一部を垣間見て、医療では解決できない社会問題がたくさんあることを知ったのです。そこで、医療だけでなく社会的な側面の勉強も必要と感じ、九州大学のビジネススクールに行くことを決めました。そこで、ヘリオス社長である鍵本さんに出会ったのです。
-鍵本忠尚社長と共に再生医療という新しい医療分野に参入するために入社されたのですね。
そうです。ヘリオス(当時は株式会社日本網膜研究所)に入ってから最初の仕事は、理化学研究所の高橋政代先生のもとで、iPS細胞の培養を行うことでした。高橋先生から鍵本さんへiPS細胞の事業化の話を持ちかけられていたところに、研究で培養経験があった私が行くことになったのです。福岡からすぐに神戸に引っ越し、眼科の勉強をしながら昼間は事業計画を立て、夜は理研の研究者に教わりつつ培養をする生活が始まったのです。
その頃の理研では、臨床研究の準備を進めていました。産業化のために安定的に量産できる培養方法を確立しなければならなかったのですが、当時は細胞をまいて一つ一つ網膜色素上皮細胞をピックアップして集めるという、確実ではありますが非常に時間のかかる方法で行っていました。「ビジネスにするには、もっと効率化する方法を考えなくてはならない」と思い、培養の常識である「少しずつ条件を変える」という手法ではなく、一気に条件を変えても上手くいきそうな方法を試してみました。それによって、培養効率を飛躍的にアップさせることができるようになったのです。他の研究者からは「無謀だ」「成功したのは偶然だ」と数カ月成功を信じてもらえませんでしたが、結果として効率が100倍ほど改善、さらに安定的に製造できるプロトコルを作ることができました。
培養効率が上がり研究から製造への道筋ができたとことで、次は製造の自動化に着手することになりました。再生医療学会の時に高橋先生から大阪大学の紀ノ岡先生を紹介していただいたことで、自動化への検討開始、さらに2014年には阪大に共同研究講座を設置、現在に至ります。
走り続けて、細胞治療の製造システムを確立する
-常に新しい世界に飛び込んでいますが、そのようなときに不安はないのですか?
不安を感じるというよりも、誰かがやらなければならないことを、たまたまそこにいる自分がすることを求められているので、「それならば私がやります」という心持ちですね。それに、こうしてどんどん新しい事をやっていること自体が大きなモチベーションにもなっています。解決しないといけない問題はたくさんありますが、そこをどう解決するか考えることは、やはり楽しい事ではないでしょうか。
もちろん求められていることは難しく、責任の重い事も多くありますが、がむしゃらにやっていけば成功か失敗かのどちらかに行きつきます。もし失敗に行きついてしまったら、そこから建て直せばいいだけです。
高橋先生にも「パスは走る人にしか回ってこない、だから走り続けなさい」と言われたことがあります。確かにその通りで、医師という道に反抗心を抱いていましたが、医学部に入ってから臨床医、バイオロジー研究、経営の勉強、そして今、エンジニアリングの領域とさまざまな経験をしてきました。今、再生医療をビジネスとして捉える時に、医学部から今までで経験してきたことが全て、非常に役立っています。なぜなら、再生医療のビジネス化を最初から最後までトータルで考えられることができるからです。
どのような疾患にどういう治療法があり、細胞治療的にはどういうアプローチ法があるかを考える。そして最適なアプローチ法を選択し、それに必要な製造工程を考え、ビジネス化できるかできないかという判断ができていると考えます。
-どのような点がヘリオスの強みだと思いますか?
まず、早い段階からiPS細胞技術に取り組み始めたことです。再生医療は今、言うまでもなく多くの企業も注目している分野です。大手企業と比べると、資金力、人的・物質的資源全てにおいてヘリオスは負けています。資金面だけでも100倍くらいの差があります。しかし新しい分野であるために知見や経験がないのは、企業の大きさに関係ありません。そう言った意味で、いち早く取り組みを始めたことは大きな強みであると感じています。
また、それ以外にも多様な人たちが集まってくれていることも強みと言えます。ヘリオスには製薬企業出身者もいれば、IT系企業出身者もいるのですが、発想が全然違うので新しい視点を得られます。新しい医療を創っていくには、この多様性を大事にしないといけないと思っています。
そして、研究開発で終わらせるのではなく、製造から販売まで手掛けることを目指していることです。多額の資金が必要となるのでベンチャー企業としては多くのハードルがあるのですが、直接患者さんに届けたいという強い思いをもって事業を進めています。
-今後の展望を聞かせていただけますか?
再生医療の進歩はとても早く、日々新しい技術、発明が生まれています。アカデミアで生まれるそういった技術・発明を実用化するための橋渡しとして、広い視野を持って探索していきたいと考えています。
また、再生医療は細胞製品なのか、移植医療なのかという議論があります。細胞製品であれば、改正薬事法下で大量生産型の販売方法が考えられます。一方、移植医療と捉えるのであれば、医師法下で個別化医療の一部として考えることができます。そのため社会の動向もいち早く察知しながら、再生医療を社会から一番求められている形として、世の中に出していく会社にしていきたいですね。