勉強会は迷ったら参加しよう!思わぬ転機になる事も
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◆大学6年生、焦りと出会い
正直、自分が勉強会を主催したりするようになるとは、学生の頃はみじんも考えていませんでした。昭和大学の場合、6年生から実習がベッドサイド重視になります。その頃から「あれ、自分やばいかな?」と思い始めました。
学生なりにOSCE等で問診や診察方法は一通り知っていましたが、いざベッドサイドになると鑑別は1-2個ほどしか出ない、想定した疾患が外れてしまうと次の行動ができなくなることもしばしば。国家試験の問題だと検査結果が最初に提示されているけれども、実際の現場ではその検査自体すぐにはできなかったり、結果が出るのに時間もかかったりします。輸液や薬も名前はなんとなく分かるけど、違いや使い分けが分からないなど、焦りの気持ちがどんどん膨れ上がってきました。
そんな中、教育熱心で指導が上手な研修医の先生の下につきました。そのことが、医学教育に興味を持ったきっかけだったように思います。その先生は忙しい中、資料をコピーして渡してくれたり、紙に書いて説明してくれたりしました。すごくありがたく感じるうちに「自分もこうなりたい、こういう上級医がもっといてくれば良いのに」と、考えるようになりました。
◆研修医時代、Input/Outputが分からない
研修医になり学生を指導する立場になり、いざ自分が受けたようなティーチングをやろうとしましたが、なかなか上手くできませんでした。
そもそも教えるためには、自分の中で知識を整理しなければならず、Inputを怠ってはいけません。一方で、教える時に時間をかけるとPHSが鳴って中断……ということが多々あるので、短時間でスムーズにOutputできないといけません。紙やcloudにまとめてみたり、鑑別やWorkUPをセットにして覚えてみてそれを実践し、良さそうなら頭の中で整理して覚えてOutputするなど、我流で試行錯誤を続けていましたが、どのように身に着けていけばいいのか分かりませんでした。
◆転機は「ファイザー若手医師セミナー」
転機となったのは、後期研修中に上級医の先生から紹介された「ファイザー若手医師セミナー」でした。決してすんなり参加した訳ではなく、「仕事の後で疲れていたら行きたくないな」「全然内容分からなかったらやだな」など、最初はNegativeな言い訳ばかり考えていました。しかし「結局、参加しないでその日自分でやるであろう勉強量と比べたら、少しでも生産性が高い勉強会に出たほうがいいかな」という気持ちで行ってみることにしたのです。
いざ参加してみると、時折笑いも起こるくらい面白しろいうえに、内容が非常に実践的で翌日からすぐ使えそうな知識ばかりで驚きました。「とりあえずでも参加してみて良かった」と思えたことで、それ以降の勉強会には「迷ったら参加する」ように変わっていったのです。そして徐々に、ただ勉強会での知識を吸収するだけでなく、どのようにしたら「参加してみて良かった」と思える勉強会を作り上げているのかという主催者側の工夫にも注目するようにしていきました。
そのような視点で勉強会に参加していたところ、ある勉強会で森川暢先生から、「どのように勉強して良いか分からなくて困っている初期研修医に役立つ勉強会を立ち上げたい」という話をいただきました。「まさに自分がそうだった!!」と思い、そんな勉強会を関東で広めていこうと、立ち上げに協力することを決めました。
◆「関東若手フェデレーション」
第1回は2015年12月、東京ベイ浦安市川医療センターで50名以上の参加者を迎えて「心電図・血液ガス」をテーマにレクチャーを行うことができました(第一回カンファレンス御報告)。第2回は2016年3月、昭和大学病院にて約20名の参加者とともに、診察に限らず「主治医意見書の書き方」や「アンガーマネジメント」といった幅広いテーマでプレゼン大会を行いました。
次回は7月9日(土)聖路加国際病院にて身体診察をじっくりしっかり学べる会を開催予定です。
https://www.facebook.com/events/794659380670123/
これまで書いてきた通り、「とりあえず勉強会に参加」したことが大きな転機となりました。自分のような研修医が一人でも増えることを願って、今後も面白く実践的な勉強会を企画していきたいと考えています。そして、同じような思いを持っている方が一人でも多く運営者として関わってくれることを願っています。
医師プロフィール
原田 拓 総合内科
昭和大学江東豊洲病院総合内科。2009年昭和大学を卒業し、自治医学附属病院で初期研修を修了。昭和大学病院で1年間内科後期研修を行い、2012年に昭和大学病院総合診療部に入局し、勉強会やジャーナルクラブの立ち上げを行っている。2015年より現職および家庭医療の後期研修中。同年に東京城東病院総合内科森川暢先生のもとで関東若手医師フェデレーションを設立し代表となる。