医師7年目の森本真之助先生は、防衛大学校から挫折を乗り越え、医師を目指します。そして、現在は地元・三重県にて地域全体で災害に強いまちづくりに取り組むため尽力しています。「浅里おもしろ大学」や「病院祭り」などの数々の取り組みはどれも地域住民から大盛況。そんな森本先生の医師になるまでの道のりと取り組みに対する思いを伺いました。
◆災害対策、教育の力で医師としてまちづくりに関わる
―浅里おもしろ大学の活動内容について教えてください。
自分がへき地診療所長を5年間務めている三重県の紀宝町浅里地区で、2017年4月から「浅里おもしろ大学」という町おこしの取り組みをしています。活動内容は地域の方たちが我々医療者や学生に田植えや稲刈りを教え、我々は健康知識や災害医療について地域の方に教えながら、交流しています。参加者は、乳児から高齢者まで全ての世代に参加してもらっています。また、毎年メンバーが入れ変わっていて、最近ではおもしろ大学に参加した子で、実際に看護師になった子も。また、都市部からも興味のある医師とその家族が集まり、非常に盛り上がりをみせています。また、2019年から始めた「おもしろ医塾」では、医療系の大学に進学したい高校生約40名を対象に、医学や健康に関する知識、英会話、プレゼンテーション、小論文の書き方などを教えています。
また、2016年からは「紀南メディカルラリー甲子園」と呼ばれる、全国で初めての高校生を対象にしたメディカルラリーを地域で開催しています。紀南病院のある東紀州地域は、将来南海トラフ地震による被害が懸念されている地域。そのため、若い世代が災害対策を学ぶための場として開催しています。メディカルラリーでは、高校生たちがチームを作り「地震が発生した地域への救護活動」など細かく状況設定がされた中で、模擬医療活動に取り組みます。過去の参加者で医学部に入学した子や、すでに医療機関で働いたりしている子もでてきています。災害への備えだけでなく、彼らは学んだ知識をもとに友達と協力して人を助ける疑似体験をします。ラリーの終了後、体調不良者の応急手当てを実際にしたという声が学校の先生から毎年報告されています。
―これらの活動の背景にはどのような思いがあるのでしょうか?
背景にある思いは、すごくシンプルです。医師としてまちづくりに関わりたいと思っています。社会を俯瞰的に見てみると、医療というものは人々の幸せを支えるインフラのひとつです。へき地医療や救急医療、災害医療を整備していくと、安心して暮らせる町が目指せます。私はこの熊野地方で「災害に強いまちづくり」を目指したいのです。そうした活動を通じて仲間や住民の皆さんと共に同じ方向を向いてまちづくりに貢献できることがとてもおもしろいと感じますし、やりがいもあります。また、医療以外にも、学び続ける社会人の代表として学生の教育に貢献できる可能性を感じていますし、全く違う分野の企画へも積極的に参加していきたいです。それが私なりのお世話になった皆さんへの恩返しだと考えています。
◆地元のため、愛する人のため
―ところで、なぜ医師を目指されたのですか?
実はもともとは教師になりたいと思っていました。しかし、裕福ではなかったのでお金を貯めてから改めて教師を目指そうと考え、まずは無償の防衛大に進学しました。防衛大で1年経った頃、怪我がきっかけで学校を辞め、教師を目指し大学受験をしようと決意しました。そこから塾の講師とラーメン屋でのアルバイト生活が始まります。しかし、塾講師をする中で、徐々に自分には教師の素質がないのではないかと感じて目標が無くなり、挫折を味わいました。問題の解き方や公式の覚え方以外に子供に教えられることが自分にはないと感じたのです。
そんな中、ラーメン屋の上司や、アパートの大家さん、偶然出会った東大生の方など、多くの方が挫折して途方に暮れる私に優しく手を指しのべてくれました。そしてお世話になった人のために恩返しがしたい、と心から思うようになったのです。さらには地元の三重県に帰った時、知り合いの三重県志摩市の市議会議長をされている方が実家に来て、「森本君、君は賢いんやから地域のために医師になって欲しいんやけど」とお願いをしに来たのです。挫折して自分探しをしている時に、こんな風に自分に期待をしてくれる人がいる――。医師になれば、お世話になった人たちへ恩返しもでき、育ててくれた祖母を守ることもできる、もし努力をして合格したならば、自分の使命だろうと思って医師を目指したのです。
―地元のため、恩返しのため医師を目指し、自治医科大学へ進学されたのですね。
そうですね。当時は、地域医療を掲げている自治医科大学へ具体的に何を勉強するか分からないまま、とにかく飛び込んだという感じでした。そのため、最初の3年間は非常に苦しみました。
しかし、医学部4年生の時転機が訪れます。きっかけはニューヨークへ留学されていた恩師からの一言です。僧侶でもある先生から「君は紆余曲折な経験を経て、心が執着でねじ曲がっているからとりあえずニューヨークへ来てみては」と言われ、渡米を決意しました。ニューヨークでは全てが初めての体験でした。ノーベル賞を狙っている大学の医学研究チームで勉強させていただき、学問の本質を学んだり、自分は借金だらけであったことや自衛隊に入っていたことなど、過去の自分を初めて明るく相手に話すことができたり。そんな学問の楽しみ方やコミュニケーションの仕方を学び、大学生活の醍醐味に気付くことができたのです。
―留学を機に、大学生の醍醐味を理解した森本先生。大学ではどのような活動をされていたのですか?
留学後は、大学の学生自治会長をやらせていただき、全国の地域医療に従事されている先輩医師へアンケート調査をしたり、三重県志摩市での救急搬送件数や、市内で119番通報してから何分で病院へ搬送できるのかを診療科別に調査したりしました。これらの経験から、インフラとしての地域医療を捉え始めました。最低限の医療とはなにか――?この問いは現在の自分の活動の原点にもなっています。
さらに、学生が卒業生の勤務している全国の現場に学びにいく「地域医療研修事業」を三重県庁と合同で立ち上げました。当時は地域枠受験制度が導入されて間もない頃。さらに、総合診療科が立ち上がる前で、地域医療を学べる場所が大学になかったため地域医療を学べる体制を整える必要がありました。しかし、大学内では自治医大の独自性が失われるなどの懸念から、この地域枠に対して否定的な意見もありました。それでも私は学生の代表として自治医大の持つ地域医療教育のノウハウを共有するべきだと思い、三重県庁と話し合いをして地域医療を学べる仕組みを整えました。これらの経験から、事業の企画・予算管理・実行などのノウハウが自分の中で構築されていきます。研修へ行った地域枠の医師とこの数年共に現場で働くようになり、研修会でできたつながりが身を結んでいると感じています。
―伊勢赤十字病院での初期研修では、院内初の「病院祭り」も企画されたと伺いました。
入局してすぐ歓迎会の席で、院長先生に直談判したので周りは驚いたと思います。当時の伊勢赤十字病院は、新病院が開院して間もなく、周辺住民からハードルが高いという意見がありました。そのため、より病院を身近に感じてもらうため、病院祭りを企画してはどうかと院長に提案してみました。しかし、100名以上の先輩医師が働く病院を動かすのはそう簡単ではありません。当初は「初期研修医が何か言ってるぞ」という雰囲気の中、恐る恐る始動しましたが、大学時代のノウハウを生かし各部署の皆さんにプレゼンをして周り仲間に協力してもらいながら、全国の病院祭りのモデルケースを元に実行委員会を立ち上げました。そして半年後、無事地域住民約3,000人が参加する病院祭り「ゆずりは祭」を実現することができたのです。
◆三重県熊野地方から全国へ、世界へ広げる
―数多くの取り組みをされてきた森本先生。今後の展望を教えてください。
これまでは若さと勢いで色々な活動をしてきたので、今後は医師として改めて修行する期間に入ったと思います。医師として成長することで、活動をさらに発展させることができると思うので、時間をかけてじっくりと鍛えていきたいです。まずは、救急科専門医の取得を目指そうと思います。
一方で、これまでやってきたまちづくりの活動に関しては継続しつつ、地域の子供たちや医療スタッフに対して、YouTube上に地域医療のことや災害、救急の話を動画にして流すことも考えています。都合がつかず、授業に来られなかった子供たちや、勉強会や研修会ばかりで疲弊している医療スタッフのため、気軽に学べる工夫もできたらと思っています。
「災害に強いまちづくり」と一言で言っても、その地域の方たちの協力があってこそだと思います。今後も、活動を通じて幅広い世代の仲間を増やし、災害に強いまちづくりを地域一体となって取り組む、そんなモデルをまずは地元の三重県熊野地方でつくりたいです。そしてゆくゆくは全国へ、世界へ広げていきたいと思います。
(インタビュー・文/岩田真季)※掲載日:2020年1月28日