誰もがいつかはたどり着く終末。なぜ多くの人が「最期まで生きる」という感覚になれないのだろうか――? この疑問から、人生の最終段階に生じるつらさの緩和の必要性を感じ、緩和ケアに進んだ田上恵太先生。現在は、東北大学で臨床・研究・社会活動の3点を軸に活動しています。緩和ケアの文化をつくると言う田上先生は、どのような想いを抱いて、大学病院内外でどのような取り組みを進めているのでしょうか?
◆大学病院内に緩和ケアの文化をつくる
-東北大学病院緩和医療科では、どのような取り組みをされているのですか?
私は2017年から東北大学病院緩和医療科に在籍し、臨床と研究、社会活動の3つを軸に活動しています。
大学病院内では、緩和ケア外来や入院緩和ケアチームで終末期の患者さんのみならず、化学療法や放射線治療、手術の副作用対策も引き受ける体制を構築しました。当院には、私も含めてがん治療の経験を積んできた緩和ケア医やがん治療の知識に長けた専門看護師・認定看護師が在籍しているので、がん治療中の支援を行う体制が構築できました。その他にも、がん患者さんに関わらず症状緩和や療養環境の調整、そしてアドバンス・ケア・プランニングを引き受ける体制も整えました。
一方「終末期がん患者さんの安心した療養ための、病院と地域のシームレスな連携体系の構築」も科内や東北大病院の課題となっていました。そこで1つの取り組みとして、在宅緩和ケアに積極的に取り組む在宅療養支援診療所と連携し、寝たきりになる前、つまり1人で病院に通えなくなった患者さんには在宅緩和ケアの導入を積極的に推進しています。そして在宅緩和ケアを受けている患者さんであれば、緩和ケア病棟に緊急入院できる体系を構築しました。
その結果、在宅緩和ケアを受けながら緩和ケア病棟の準備を行った患者さんのうち60-70%は自宅で最期まで過ごしています。ひとえに問題意識を共にし、協働してくださる在宅緩和ケアや東北大学病院内の医療者の皆様のおかげでありますが、東北大学病院、ひいては仙台・宮城で緩和ケアが文化になる日が近づいていることを期待しています。この取り組みは決して万全ではないですが、他の病院や地域に緩和ケアが波及するGiant Leapになることも期しています。
-社会活動としては、どのようなことをされているのですか?
緩和ケアに関するアウトリーチ活動を行っています。我々医局員が、緩和ケアの専門性が求められるものの十分なスキルや知識が蓄積していない医療機関へ定期的に訪問し、地域の医療・福祉従事者と診療を共に行いながら、地域の緩和ケアの専門性を高めようとしています。
現在私は、宮城県登米市と鹿児島県の離島・徳之島でこのアウトリーチ活動を行っています。どちらの地域も緩和ケア病棟はないものの、自宅や施設、一般病院で安心して終末期を迎えられるようなシステムを構築していきたいという機運が高まっていました。登米市では、協働しているスタッフたちの緩和ケアに関する知識が、アウトリーチ活動に暴露されることでどのように向上していくかという研究も行っています。
◆なぜ「死」は忌み嫌われるのか?
-田上先生は、なぜ緩和ケアの道に進んだのでしょうか?
私はクリスチャンなのですが、キリストを信ずる者のみが救われるという考え方にどうしても納得できませんでした。キリストは全人類を救うために自らを犠牲にしたのに、なぜ宗教の違いで区別するのか、とずっと疑問でした。そんな悶々とした思いを持っていた高校時代に、「深い河」(著:遠藤周作)を読んだところ、「さまざまな宗教があるが、それらは皆同じところから始まり、最終的には同じ神に到達する」という書かれ方をされていました。
その考え方が腑に落ちたと同時に、人は同じように母から生まれ、どんな人生の道程を歩もうと、最終的には全員が死ぬ。どんな境遇の人でも必ず経験するのが「生まれる」時と「死ぬ」時であり、全ての人が経験するその瞬間に関わる医師になりたいと思ったのです。
終末期に関わる医師になりたいと思い始めたのは、医学部に入ってからでした。私が学生だった2000年代前半は、終末期や緩和ケアと言えば良いイメージが持たれなかった時代です。大学で緩和ケアに興味あると言うと「死にゆく医療を目指す学生なんてとんでもない」「患者だって、そんな医療は望んでない」 と言われることもありました。
一方で宗教の観点からは、「死」はネガティブな存在ではありません。「死」を忌み嫌うのは、痛みや苦しみ、症状の辛さを必ず経験しなければならないということが、解釈に大きな影響を与えていると考え至り、それならば、痛みや苦しみを軽減できれば、最期まで良く生き、良く最期を迎えるのではないか。「死」を忌み嫌うことなく人生の道程として捉えられるようになるのではないか――そう考えて、緩和ケア医になることを決めました。これが、今の活動の原点になっています。
-それで、緩和ケアに進むことを決意した。
父親が皮膚科医だったことから、皮膚科の選択肢も持ち続けていました。そのため初期研修先は、有益な皮膚科の研修ができる東北労災病院を選択しました。東北労災病院は当時の市中病院には珍しく、腫瘍内科や心療内科があり、緩和ケアチームがきちんと整備されて配置されていました。皮膚科の研修や診療もとても楽しいものでしたが、初期研修医時代から緩和ケアチームにも参加させてもらい、将来を決めました。やはり、緩和ケアに縁があったのだと思います。
そして緩和ケア医になるため、一旦がん治療を勉強するため腫瘍内科に進むことにしました。今は早期からの緩和ケア介入など、がん治療と緩和ケアが連携して治療や生活を支えていくことは文化になってきていますが、当時はまだまだ異文化でした。しかし研修を行った東北労災病院や国立がん研究センターではがん治療と緩和ケアが並行・連携していて、素晴らしい経験をさせてもらいました。
2012年からは、国立がん研究センターの緩和医療科のレジデントになり、その後5年間にわたって同センターの中央病院、東病院に勤務し、2017年に再び仙台に戻ってきて東北大学病院緩和医療科に在籍しています。
-2017年に東北大学病院に移籍したのはなぜですか?
国立がん研究センターで緩和ケアの専門医を取得し研究にも従事していましたが、首都圏にいるのは5年間と決めていました。自分や家族の価値観を鑑みると、長く暮らすならば便利さよりも豊かな土地を選択したいと考えていました。
また2015年、肺がん治療の開発に長年携わってきた井上彰先生が当科の教授に就任されました。つまり、がん治療のプロフェッショナルが緩和ケアの教授になったのです。私自身、がん治療と共に歩きながら、人生のこれからの道程を考えていくのが緩和ケアであり、決して終末期だけのものではないと考えていました。自分が宮城県仙台市出身ということもありますが、井上先生がそのコンセプトの下で臨床や研究を展開されていたこと、そして人格者であることもあり、井上先生と一緒になら身を粉にして働けると思い、仙台に戻ってきました。
他にも東北大学には看護学や心理学、統計分野などにおいて緩和ケアのプロフェッショナルも多数在籍しています。また仙台市内にはがん終末期を支える在宅緩和ケアを専門とする在宅療養支援診療所も複数あったことから、この地であれば「緩和ケアの文化」を構築できるのではないかという考えもありました。
◆「どう死ぬかではなく、どう最期まで生きるか」考えられる社会に
-今後の展望はどのように考えていますか?
私の今の目標は、緩和ケアを受けることが特殊ではない社会にすることです。今はまだ緩和ケアを提案されると、患者さんや家族は死亡宣告を受けたような感覚になることの方が多いように思います。これは僕ら緩和ケアの努力不足もあるので、頑張らないといけません。
病気の診断を受けた方も老いの衰えが進んでいく方も、緩和ケアを当たり前のように受ける社会、文化を構築していきます。病気の診断がついたら、進行した時のことを考えましょう、元気なうちに介護が必要になった時のことを考えておきましょう、年老いてきたらどう過ごしたいか考えていきましょう、と共に考えていくことも緩和ケアの本質の1つだと考えています。
どう死ぬかではなく、どう最期まで生きるか――死を忌み嫌うのではなく、最期まで自分らしくどのように生きるかを前向きに考える人が1人でも増える社会にしていきたいですね。
(coFFee doctors編集部) ※掲載日:2020年9月1日