家族で島根県浜田市へIターン「地域全体を支える僻地医療がしたい」
記事
◆地域の役に立つ僻地医療がしたい
―なぜ家庭医療の道に進み、初期研修先に地域医療振興協会を選んだのですか?
家庭医療に興味を持ったきっかけは、大学5年生の時に愛知県作手村(現・新城市)の当時名郷直樹先生が所長をされていた診療所で実習をしたことです。患者さんの病気だけでなくその方の人生をまるごと診る名郷先生の姿に感銘を受け、家庭医を目指すようになりました。
6年生の時には、名郷先生が研修医の育成をされていた地域医療振興協会の横須賀市立うわまち病院を見学。そこでは研修医がとても生き生きと仕事に取り組んでいて、自分がここで研修する姿を自然とイメージできたんです。大学卒業後は横須賀市立うわまち病院で初期研修することにしました。
―僻地医療へと進んだのはどのような思いからですか?
初期研修中、岐阜県郡上市にある和良診療所で後藤忠雄先生のもと、3カ月間の地域医療研修をしました。当時、この地域では喫煙による肺の病気が健康課題となっていました。そこで後藤先生は治療だけでなく、村全体で喫煙問題にどう向き合い予防を進めるかを考えていたんです。診療所の看護師さんや村の保健師さん、学校の先生や養護教諭、自治会の代表者、さらには地域住民が一緒になって禁煙に取り組んでいました。
後藤先生の姿勢は、目の前の患者さんだけでなく地域全体を見据えた予防医療でした。その姿を見て、病気の原因を防ぐ予防医療こそが人々の健康に根本的にアプローチしていることに気がついたんです。僻地の医師は、地域の予防医療にも深く関わることができます。そして、私も地域の役に立てる僻地の医師になりたいと思うようになりました。
◆妊娠、出産。自分は医師として成長できるのか?
——専門医取得までに時間がかかったとお聞きしました。
はい。家庭医療専門医を取得するまでには大学卒業後約10年かかりました。この間に同協会の後輩医師である佐藤誠と結婚して長男を出産、さらに次男を妊娠していたからです。
専攻医2年目の終わり頃、長男を妊娠していたのですが、切迫流産になり突然仕事を休まざるを得なくなりました。その時は「まだ自分は実力不足なのに、この先医師として能力を積み重ねていくことができるんだろうか」と、とても不安でしたね。さらに出産後1年間の育休期間に勉強はできるだろうと思っていたのに、実際には育児に追われ自分のことは二の次になってしまって、なかなか勉強も進みませんでした。
——どのようにしてその悩みを乗り越えたのですか?
長男が1歳になったタイミングで仕事に復帰し、1年間は仕事だけに集中することにしたんです。その間は夫が仕事をセーブして、家事と育児をしました。後期研修に集中して取り組み、家庭医療専門医取得まで到達したことで、ここまでの能力は身についたと少し安心できました。
そうすると、地域で役に立つ医師になりたいという目標にも、ゆっくりであれば到達できそうだと思えたのです。子どもを優先したり仕事を抑える時期があったりするので他の人より時間はかかるだろうけど、それでも達成できないことはない、と。それからは、大きく悩むこともなくなりました。
——専門医取得後、なぜ島根県浜田市の浜田市国保診療所連合体へ入職したのですか?
私も夫も、長男が小学生になったら定住できる環境で働きたいと思っていました。専門医を取得した当時、私は次男の妊娠中。ですので、しばらくは私と夫の2人合わせて1.2人分ほど、時間が経つにつれ2人分に近い働きができるようになるだろうと考えていました。それならば僻地の診療所でグループ診療をしているところがいいと考え、全都道府県を調べることに。そこで見つけたのが島根県浜田市の浜田市国保診療所連合体と、岐阜県郡上市の県北西部地域医療センターです。
浜田市国保診療所連合体は、国民健康保険の診療所が4つと、浜田市役所健康医療対策課、浜田医療センター総合診療科で構成されています。行政にもポジションがあることで、予防医療に携われる点に魅力を感じました。また、現在所長を務めている波佐診療所は、私が僻地医療を目指すきっかけとなった岐阜県郡上市の和良診療所のように、地域に根差した小さな診療所。見学の際には住民の方が丁寧に地域を案内してくださるなど、地域から親しまれ、まさに私の思い描いていた診療所だったんです。
さらに、子育ての環境としても良いと感じました。地域によっては近隣に高校がないこともありますが、浜田市なら住む場所から高校に通うことができるので、将来、子どもが自宅から高校へ通える選択肢も残せると思いました。自然も豊かで、釣りや海水浴、スキーも楽しめます。
これまで、日本全国の僻地医療に1週間から最長3年という期間で携わっていたので、自分たちはどのような地域でなら生きていけるのか、ある程度言語化されていました。ですので、縁もゆかりもなかった浜田市ですが、移住にはあまり抵抗はありませんでしたね。
——浜田市国保診療所連合体に入職してから、どのような勤務形態をとっていますか?
浜田市に移住した当初は、次男が生後6カ月だったので仕事は休みにしていました。次男が1歳になった頃から働き始めましたが、最初は週2回、半日ずつの勤務でした。その頃は目の前の患者さんを見ることで精一杯でしたね。徐々に仕事量を増やし、勤務して5年ほど経った頃に波佐診療所所長を任せてもらうことになりました。所長になってからも週3日の勤務で、私が休みの日には他の診療所から医師が来てくれていました。
私が診療所長になった時は、夫が自身の仕事量を8割程度に抑えました。私の勤務日は帰宅時間が遅くなるので、その日は夫が早く帰宅して、小学校から子どもたちが帰ってくる時間にはどちらかが必ず家にいるようにしていました。
このように、夫婦合わせてどの程度仕事に取り組むか柔軟に変えてきました。それができたのは、夫が「医師ひとりひとりが一人前になり、役に立つ」ことを大事にしていたこと。そしてグループ診療であることに加え、元リーダーの阿部顕治先生が各医師の良いところを探して能力を活かし、それぞれの意見を尊重してくれたこと、さらには、一緒に働く仲間達や住民の方々も支えてくれたからです。
佐藤 優子 先生の人生曲線
医師プロフィール
佐藤 優子 家庭医療専門医・総合診療専門医
浜田市国保診療所連合体 波佐診療所所長
2004年日本医科大学医学部医学科卒業後、地域医療振興協会入職。横須賀市立うわまち病院、国保和良診療所等で初期研修修了後、同協会の「地域医療のススメ」にて日本プライマリ・ケア連合学会認定家庭医療専門医・指導医を取得。2014年浜田市国保診療所連合体に入職し波佐診療所に勤務、2018年から波佐診療所所長を務める。2022年から全国国民健康保険診療施設協議会「若手の会」世話人。2024年第11回やぶ医者大賞受賞。