ハーバード公衆衛生大学院で「ウェルビーイングと健康」「働くウェルビーイング」をテーマに研究を進めている古賀林観先生。「感謝されない医師」という言葉に惹かれ、産業医科大学へ進学、初期研修修了後にハーバード公衆衛生大学院へ進学しました。留学前は自分が少し変わっていると感じていたものの、実際に飛び込んでみると、同じように多様な道を歩む仲間が多く、「世界はもっと広い」と実感したといいます。キャリアの選択や迷いの背景、そして働く人のウェルビーイングをめぐる現在の研究について、詳しく伺いました。
◆現在の取り組み
—2022年、ハーバード公衆衛生大学院博士課程在籍中に発表した論文が、大きくメディアで取り上げられたそうですね。
CNNはじめ455件ものメディアに取り上げていただきました。研究のテーマは、楽観主義と女性の長寿の関係について。「○○をしたら病気になる」といったリスクが取り上げられがちな中、ポジティブに将来を考えられるようなテーマだったことが、斬新だったのかもしれません。
アメリカ人16万人分のデータを使い、人種別に楽観的な人とそうでない人を比べ、どれくらい長生きするのか、また、90歳まで到達する可能性はどれくらい上がるのかを明らかにしました。ライフオリエンテーションテストという心理学の尺度があり、そのテストで最も楽観性が高かった人の方が、低かった人よりも5.4%長生きだったことが分かったのです。また、90歳に到達する確率も10%高いという結果が出ました。
この研究では、楽観的になるような介入をすれば長生きするのかは明らかになっていませんが、少なくとも楽観性と長生きに関係があることは分かりました。
—2023年に博士課程を修了され、現在はどのようなテーマで研究を進めているのですか?
私はハーバード公衆衛生大学院に在籍し、引き続きウェルビーイングやポジティブな要因が健康にもたらす影響を研究しています。その他に、私は産業医学のバックグラウンドもあるので、現在「働くウェルビーイング」というテーマでの研究にシフトしつつあります。
日本には「ブラック企業」と呼ばれる企業があったり、長時間労働など就労環境の悪さが問題視されたりしますが、日本の職場や働き方にも良い点があると考えています。例えば、社員や従業員を大切にする文化、社員同士のつながりやネットワーク、サポート体制がしっかりしている点など——そういった点は、アメリカの企業は日本企業から学べることが多いのではないかと思っているので、そういった点を研究していきたいと考えています。
—働く環境のポジティブな面の研究を進めようとしているのですね。
産業医学の観点からは、もともと「働くこと=健康リスク」と捉えられてきました。だからこそ私の母校である産業医科大学も開設されたのですが、働くことは、働きがいや人とのつながりなども得ることができるなど、メリットにもなり得ます。そういったポジティブな部分でウェルビーイングを促進できれば、働く人がより幸せに働くことができますし、企業にとっても、離職率の低下や売上の向上といったメリットがあるはずです。産業医学のバックグラウンドと博士課程で学んできたことを組み合わせて取り組んでいきたいと考えています。
◆これまでのキャリア
—公衆衛生に関心を持たれたきっかけについて教えてください。
高校生の頃、「人の役に立ちたい」という素朴なきっかけから医学部進学を考えるようになりました。具体的に志望校を検討する中で産業医科大学を知り、そこで初めて産業医学という分野を知ったのです。調べていく中で、同大学の初代学長の著書を読むと「感謝されない医師」という言葉に出会いました。病気になる前に、その人が病気にならないようにするのが感謝されない医師であり、それが産業医だと。その言葉になんとなくかっこよさや面白さを感じ、同大学への進学を決めました。
入学すると、他大学の医学部とは異なり、1年生から産業医学の授業や実習があったので、公衆衛生や予防に触れる機会が多くありました。こういった環境も、公衆衛生に意識が向きやすかったひとつの要因だと思います。
特に4年生になって受けた公衆衛生の講義は、社会と人々のつながりが見える講義でとても面白かったです。厚生労働省などにも提言されている、公衆衛生を牽引される一人である松田晋哉先生が教鞭をとられ、日本の医療制度への興味を持たせてくれるような内容でした。
ただ、公衆衛生の基盤である疫学研究には、難しそうなイメージを持っていました。また、公衆衛生学教室に女性も少なく、自分が実際に研究している姿をあまり想像できなかったので、当時は公衆衛生に興味はあったものの、自分が研究者になるとは思ってもいませんでした。
ところが、臨床研修では医療にできることの限界も感じて——。「なぜ、目の前の人は入退院を繰り返すのだろう?」「なぜ健康指導をしても響かないのだろう?」と、モヤモヤするものを感じていました。同時に、このような臨床現場で感じるモヤモヤは、もっと勉強しないと分からないだろうとも思っていました。
—それでハーバード公衆衛生大学院へ進学することを決めたのですか?
きっかけは、日本人でハーバード公衆衛生大学院教授のカワチ・イチロー先生の著書『命の格差は止められるか』(小学館)を読んでみたことです。「川の上流・下流」という考え方が、深く印象に残りました。病院など医療現場は「川の下流」で、そこで一生懸命に患者さんを助けても、上流から次々と患者さんが流れてくるのはなぜだろう、という疑問に目を向けるのが公衆衛生だと気付かされました。
カワチ先生は公衆衛生の中でも社会疫学を専門にしています。そして社会疫学の最初の教科書は、ハーバード公衆衛生大学院の先生方が書かれていました。「本場で社会疫学を学んでみたい」との興味から、初期研修修了後にハーバード公衆衛生大学院修士課程に進むことを決めました。
—初期研修を終えてすぐ留学することに関して、迷いはありませんでしたか?
母校の産業医科大学は義務年限がありますし、初期研修を終えてすぐに留学した前例もあまりなかったので、ロールモデルもおらず、後期研修というレールに乗らないことへの不安はありましたね。ただ、その時は修士課程の1年間だけで帰国する予定だったので「修士が終わってから後期研修を受ければまたレールに戻れる」との思いで渡米しました。
—ハーバード公衆衛生大学院での一番の収穫は、どのようなことでしたか?
まず、日本から出る時には「公衆衛生なんて勉強してどうするの?」という目で見られるような、変わりものでした。ところが修士課程に進んだら変わりものばかりで、全然浮かなかったんです。ものすごく多様な世界に安心したと言いますか「なんて狭い世界で生きていたんだろう」との気付きが収穫でしたね。
もう1つは、日本ではほとんど出会ったことがない女性教授に出会えたこと。公衆衛生は比較的女性研究者が多い分野なのですが、学生側もほとんどが女性でした。日本にいた時には、公衆衛生は男性研究者がデータをいじっているイメージを持っていましたが、それがガラリと変わりました。
—当初は1年間の修士課程を終えたら帰国予定だったと思います。そのままアメリカに残っているのはなぜですか?
まず、修士課程は臨床医で言えば初期研修のようなもので、学び足りないことがたくさんあると感じたんです。また、研究者同士の会話がかっこ良く「あんな風に研究について議論したい」との憧れも出てきました。そのため、研究者として独り立ちするためにも博士課程に進みたいと考えるようになりました。
また、日本ではまだ少ないですが、アメリカではアカデミアでも女性が活躍しています。多くのロールモデルがいて、その方々から学び、自分も将来誰かのロールモデルになりたいと思うようになりました。
◆これからの展望
—これからのキャリアでは、どのようなことを実現したいと考えていますか?
アカデミアにこだわっているわけではありませんが、今後も研究は続けていきたいと考えています。常に広い視野を持ち「働くことでウェルビーイングにつながり、人々が幸せに働ける世の中」の実現に向けて、何らかの形で貢献し続けたいと思っています。働くことがただの健康リスクではなく、むしろ健康や幸せの源になる。そんな世の中にしていきたいですね。
—これからのキャリアパスについて悩んでいる後輩に向けて、ぜひアドバイスをお願いします。
医師の働き方は1つではありません。私のような医師もいれば、また違った活動をしている医師がいてもいいはずです。なぜなら、健康は多様な側面から捉えるべきものであり、その健康を支える医師のキャリアもまた、多様であっていいと考えるからです。
ですから、自分がやってみたいことには、どんどん挑戦してほしいですね。周囲からさまざまな意見を言われることもあるかもしれませんが、自分の人生は自分で決めるもの。周囲の意見に振り回されすぎる必要はないと思います。
特に女性医師は「家庭や育児と両立しやすい診療科を選ぶ方がいい」というアドバイスを受けることが多いように感じます。その結果、自分のやりたいことよりも「働きやすさ」を基準にキャリアを選択しているケースも見受けられるように思います。もちろん、自ら納得してその選択をするならいいのですが、他にやりたいことがあるなら、ぜひ挑戦した方がいいと思います。
確かに日本では、女性のロールモデルの多様性が乏しく、専門トレーニングを積んだものの、家庭や育児を優先して非常勤医として働く女性医師の話をよく耳にします。そのような話を頻繁に聞いていると、それが当然の選択のように感じてしまうかもしれません。でもそれは、自分自身の可能性を狭めてしまっているのではないでしょうか。
ハーバード公衆衛生大学院の第一線で活躍している女性教授を見ていると、子育てと自分のキャリアを両立させる道もあるのではないか、と思えるようになりました。身近にそうしたロールモデルがいないと、なかなかそうは思えないかもしれませんし、女性の家事負担の根本的な軽減や医療現場での働き方も考える必要がありますが、まずは自分の可能性を自分で狭めてしまっていないか、少し立ち止まって考えてみてほしいです。
(インタビュー・文/coFFeedoctors編集部)※掲載日:2025年12月16日