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山梨から東北へ 570kmの道のりを通い続ける支援活動[1]

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山梨市立牧丘病院の院長を勤める古屋聡先生は、東日本大震災後から毎月東北に通い、現在も支援活動を続けています。どのような経緯で支援活動を始められ、被災した地域のどのような課題を見てこられたのか、現地入りした頃の状況からお話を伺いました。

―被災地でのご活動の経緯を教えてください。

初めて現地に入ったのは3月16日でした。東北はもともと医師が少ないところで、なおかつ出身大学である自治医科大学の同窓生も当然たくさん働いているところです。東北の被害状況を聞いて、必ず行かなければならないと思い、その日の内に準備を始めました。当直明けの3月13日に出発し、現地での活動を始める予定でした。

とはいえ、あまりにも大きな災害でしたし、安全に行かなければ支援も何もできないので、まずチームを組もうと考えました。そこで自治医科大学の卒業生を頼ることにしました。いろいろな経緯があり、その段階ではDMATを除き大学としての支援はスタートしないということになったので、自治医大同窓会チームとして、まずは私自身を隠岐島前病院の白石吉彦先生とともに先遣隊として出してもらうことにしました。

津波の映像は皆さんもご覧になられた通り衝撃的で、当然のことながら、被害の大きい地域から支援部隊が次々と入り込み、家を流された方々が避難所に集中することが考えられました。避難所は津波の被害を逃れた内陸の方に集中するはずなので、そうなると避難所のバックに構える病院が困ることになると考えました。そのため沿岸から一歩離れた、震災前から医師が不足している地域で支援のニーズを探ることにしました。

具体的な道すじとしては、東北自動車道の古川ICあたりから情報の入らない宮城北部の内陸地域を経て、もともと医師不足で困っていた岩手の千厩(せんまや)病院に向かうことにしました。途上でいくつもの病院に立ち寄りることで医師支援のニーズを聞いていきます。

宮城県石巻市の内陸側に位置する涌谷町(わくやちょう)に入った時には、病院の職員さんに「初めて外から来た人だ」と言われました。その北側の登米市に入った時には真っ暗で、どこが大丈夫でどこがダメージを受けているか、どこにけが人がいてどこに避難者がいるか、全く情報が入りませんでした。救護できる人がいても電話も携帯電話も使えないので救急車も呼べません。病院は自家発電でなんとか稼働しているとはいえ、電話で連絡ができないので、自転車で呼びに行かなければならないのです。また、救急車も救急隊も被害が大きい沿岸の地域へ応援に向かっているので、そもそも救急車が来れるかどうかを確認しに行かなければいけませんでした。

そんな状況を見ながら北上し、まずは自治医大の先輩のいる岩手県藤沢病院に16日未明に到着しました。その時ようやく停電から回復したところで、そこを後方支援の基地にしていただけることになりました。そこで一晩過ごし、再び南下して南三陸町へ行ったり千厩へ戻ったりとあちこちまわって自治医大のチームでの支援の方針を決めていきました。そして、次に来るメンバーがどのように支援していったら良いかを、本部と相談しながら次のチームへと引き継いでいきました。

山梨から東北へ 570kmの道のりを通い続ける支援活動[2]

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医師プロフィール

古屋 聡 在宅医療、整形外科

1987年自治医大卒。山梨県立中央病院で研修後、山梨県牧丘町立牧丘病院(現山梨市立牧丘病院)にて“ひとり整形外科医”として勤務。1992年より塩山市国保直営塩山診療所(現在は閉院)にて在宅医療に取り組み、2006年に山梨市立牧丘病院に再度赴任、2008年より現職。
東日本大震災後に現地での支援活動に取り組む中で、2011年3月25日に成立した在宅患者をサポートする医療支援チーム「気仙沼巡回療養支援隊」にて活動する。その中の特別活動として「気仙沼口腔ケア・摂食嚥下・コミュニケーションサポート(通称ふるふる隊)」をコーディネートし、内外の多職種で取り組み、その後、「気仙沼・南三陸『食べる』取り組み研究会」を地域の方々とともに立ち上げて活動している。

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