2015年から3年間、米国への臨床留学を果たした山田悠史先生。臨床留学を実現するまでには紆余曲折があったといいます。そんな時期を経て渡米した山田先生は現在、日本で次なるステップを歩き出しています。臨床留学までの道のりと、今後の展望を伺いました。
◆アメリカへの臨床留学を諦めかけたこともあった
ー医師を志したきっかけから教えていただけますか?
父が人口1000人に満たない小さな村の医師で、物心ついた頃から自然と医師になることを考えていました。そして、父が村唯一の医師で、村の人の誰かに何かあったら何でも来なさいといえるような医師だったので、自分もそうなろうと考えていました。
-米国への臨床留学もされた山田先生。いつから臨床留学を考えていたのですか?
慶應義塾大学医学部に進学。大学3年生の頃だったと思いますが、アメリカにFamily Medicineという診療科があることを知りました。それが、自分が思い描いていた医師像に近いと思いました。また、医学部入学時に私は「医学部に入って医師になるのは、同級生みなが進む道であり、自分はそれにプラスアルファで何かやろう」と決めていました。その2つが重なり、アメリカの医師免許を取得し、臨床留学しようと決めたのです。
-臨床留学されるまでのことを教えていただけますか?
当初の予定では、初期研修の2年間でアメリカの医師免許を取得し、3年目から臨床留学しようと思っていたのですが、日常業務が忙しく全然勉強が進まず――必要な試験をパスできませんでした。
特に私は、帰国子女でもなく英語も全然使ったことがない人間だったので、英語が全然しゃべれませんでした。そして、英語で仕事をするイメージ像が持てていなかったので、がむしゃらに英語を勉強するものの、常に「これでいいのだろうか?」と思い続けていました。振り返ってみると、ゴールのイメージがないままに英語を勉強するのが一番難しかったです。
3年目からは川崎市立川崎病院総合診療科に勤務しながら勉強を続けていました。ところが、まさに何でも診る科でかなり忙しい病院だったため、自分のやりたい診療ができて充実はしていましたが、徐々に留学のための勉強量は減り、現実的に留学が見えなくなっていきました。
-米国への臨床留学を諦めかけた――?
そうですね。ただ、本当にこのまま諦めていいのかと考え、全てを一旦リセットすることを決意。医師4年目の途中で病院を辞め、半年間バックパッカーとしてヨーロッパを放浪していました。
そうしているうちに、さまざまな人に出会い、日本人で医療とは全然関係ない職種の人とも知り合いました。そして、彼らに自分自身のことを話している中で、自分は結局、医師という仕事が心から好きだということに気付きました。さまざまな人と話せば話すほど、日本で医師として働きたくて仕方なくなり、再び川崎病院に戻りました。
◆1人の医師との出会いで臨床留学が実現
-その後、練馬光が丘病院総合内科に勤務されて、渡米されています。
帰国後は、日本で医師がしたいとの思いが強く、これまでの振り戻しのように「医師のレール」に戻ろうとして、母校の大学病院に行こうと考えていました。そこで1つの出会いがあり、結果的にアメリカへの臨床留学を実現することができました。
当時、東京ベイ市川浦安医療センター院長を務められていた藤谷茂樹先生に、たまたま何かのセミナーでお目にかかったのです。自分のキャリアを話していたら、初対面にもかかわらず「USMLEを途中まで持っていて、情熱もあって、そんな能力を得られる医師はごく一部なのに、なんでその権利も才能も放棄するんだ」と説教されたのです。そして「1回病院まで来い」と言われました。
翌週行ってみると、院長で多忙にもかかわらず、朝の8時から12時まで4時間もの時間を私のために割き、延々と私のキャリアを白板に書き続けました。結局藤谷先生の言いたかったことは、「うちに来い」ということだったのかもしれませんが(笑)、「お前がこのまま慶応に行ったり、日本でのキャリアを積んだりするのはもったいない。自分のところに来たら必ず2年後にはアメリカに行かせてやる。だからうちに来て、留学しろ」とおっしゃっていただきました。最初は驚きましたが、院長で当直もしながら精力的に働かれ、ご自身の夢を語っている姿に、この人にならついていってもいいかもしれないと思いました。そこで、母校に帰ることを決めていましたが断りました。
結果的に当時、東京ベイ浦安市川医療センターに来ていた留学希望者の多くは、人手の不足していた練馬光が丘病院に異動し、総合内科を立ち上げることになり、私も期せずしてその一員になりました。そして2年後、アメリカに臨床留学することができました。
-総合診療を学ぶために渡米された山田先生ですが、留学の中で印象に残っていることはどのようなことですか?
私はニューヨーク・マンハッタン島にあるMount Sinai Beth Israelに留学しました。まず衝撃的だったのはニューヨークの街。人だらけ、車だらけ、ビルだらけで、人は平然と信号無視をして、他人のことを気にしていない雰囲気で、非常に混沌としていました。
病院では、英語が通じればまだマシ。患者さんの半数近くが、広東語かスペイン語を話し、英語も通じませんでした。そしてさまざまな国の人がごちゃまぜで、価値観も全く違います。言葉が通じても、こちらが常識と思っていることが、相手にとって当たり前でないことは日常茶飯事。そのやりとりに難しさを感じましたが、それが新たな気付きでもありました。日本では、常識と思われることはお互いに言葉にしなくても通じていることを、日本を出て初めて痛感しましたね。
そのような環境で「Medicine」を学ぶことに集中できていたかというと、正直あまりできていなかったかもしれません。ニューヨークでは、もはやこれまでの自分の価値観や考えを破壊されるような衝撃に何度も出会いました。しかし、定義はあいまいですが、まさに「総合診療」はできたと思います。日本では診たことがないようなドラッグをしている人が運ばれて来たり、どこの国の人かも分からない患者さんがいたり――。日本よりはるかに幅広い患者さんを相手に毎日診療していて、日本では経験したことがないような「総合診療」でした。
◆総合診療医としてやりたいこと
-帰国後、埼玉医科大学病院総合診療内科に赴任されたのはなぜですか?
これまでも人とのご縁でキャリアが決まってきましたが、今回も人とのご縁でした。父が急病で倒れ、帰国の決断を余儀なくされたとき、埼玉医科大学病院総合診療内科教授の宮川義隆先生が、毎日のように国際電話やLINE®で熱烈なオファーをくださって――これもご縁だと思い、帰国後着任しました。
当院は大学病院なので後期研修医も10名以上いるのですが、後期研修医向けのレクチャーもほとんど行われていませんでした。教育のないところには人は集まらないけれども、出身大学だからと後期研修医が集まっているような印象を受けました。これでは彼らは1人前に育てられないと思い、教育環境をつくることが、自分が誘われた理由だったのかもしれないと考え、教育環境づくりを始めています。半年で、1からカリキュラムを作り、毎週1回レクチャーをできるまでにはなりました。
また、日々の臨床や教育体制づくりで忙しくしていますが、日本に帰国したからには、アメリカではできなかったことをやろうと思い、病院の外での活動もしています。やはり帰国した今も、人のプラスアルファで何かがしたいという信念がどこかにあるのだと思います。
-病院外での活動とは具体的にどのようなことをしているのですか?
例えば、ニューヨークで知り合った友人から、NewsPicksの方を紹介してもらい、帰国後から公式コメンテーター「プロピッカー」を始めました。健康だからこそ普段なかなか病院でお会いすることのないビジネスマンのヘルスリテラシー向上に少しでもつながればと思い、そのような方たちがよく読んでいる雑誌の医学情報に行間を埋めるようなコメントやエビデンスをつけて提供しています。
また、カンボジアでアプサラ総合診療医学会という総合診療の学会を友人で順天堂大学総合診療科の高橋宏端先生らと立ち上げました。年に2回の学会と、月に1回のオンライン・カンファレンスをしています。
-今後の展望はどのように描いているのですか?
短期的にはもう一度アメリカに戻って医学教育や老年医学を勉強し直すことも考えていますし、アメリカの大学院に進学することも視野に入れています。長期的には、これまで11年間、ずっと総合診療をやってきたので、後世に総合診療医としてのキャリアパスを示す、自分のような総合診療医を日本で育てるのがライフワークになっていくと思っています。そして、結果として総合診療医によって助けられる患者さんを増やしていきたいですね。
(インタビュー・文/北森 悦)