若手医師へ「他流試合研修のすすめ」
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医師が幅の広い真の臨床実力を身につけるための研修の場について考えてみたい。
自分自身の過去を振り返ってみると、離島や地方の病院での経験が大きかったと思う。沖縄中部、那覇や石垣島の病院ではかなり鍛えられたが楽しかった。昨年までの5年間はまた、水戸でやはり鍛えられて、楽しかった。さまざまな施設には、素晴らしい指導医がおられ、貴重な指導を受けることができた。また、新たに総合内科を立ち上げるときの醍醐味は特に圧巻であり、マネジメントの勉強にもなった。
沖縄中部と舞鶴で指導医として活躍されたカナダ人医師の故GC Willis先生は、アジアやアフリカなど世界中で医療活動を展開し、ひとりでできる医療の範囲を局限まで広げてみせた。その英智がまとめられたWillis noteは日本語版も出版されている。すべての若手医師にお勧めしたい。
一方、都会の大病院のみで研修した場合のコンプリケーションは意外に重い。まず、都会の大病院では分業が激しくなり、結果として、個人の守備範囲が狭くなる。精神的にもセクショナリズムにはまる危険性が高い。たこつぼに閉じこもってしまい、守備範囲がどんどん狭くなる。
守備範囲が狭くなるとグローバル医療に参加できない。沖縄の離島でのんびり医療をやりたくてもできない。大学医局に守られるから大丈夫といっても、医局の寿命はだいたい10年〜15年だから(教授選のインターバル)、キャリアとしての予後も危険なのである。
都会の大病院でレジデント研修を終えて地方病院で働き始めた医師が、ナースや患者を怒鳴り散らしているケースをしばしば目撃したことがある。こういう医師の行為はdisruptive behaviorと呼ばれており、最近かなり注目されている。医療安全を脅かす脅威として。守備範囲の狭い医師がこういう行為を行うリスクが高いと言われている。
グラム染色を細菌検査技師にまかせずに自分でやる。超音波検査を検査技師にまかせずに自分でやる。CT読影は自分でもやり、その後に放射線科医の読影を参照する。読影レポートを単にコピーするようなことは決してやらない。
江戸時代初期では宮本武蔵、幕末では坂本龍馬などが全国で武者修行の旅に出ていた。他流試合はとても勉強になる。とくに武蔵は、柳生家、吉岡兄弟、そして厳流佐々木小次郎と試合をし、生涯負けなしであったという。悟りの境地に達した晩年は、熊本の洞窟にこもり1年間かけて「五輪の書」を著した。医師もみんな最期は1人という覚悟が必要と思う。
水戸黄門で有名な徳川光圀も最期は、水戸藩の山小屋にこもり、歴史書を編纂した。その遺志を引き継いだ、徳川斉昭は、水戸に「弘道館」を立て、息子の慶喜(江戸幕府最後の将軍)を教育した。弘道館には、当時で最先端の醫學(東洋+西洋)が教えられていた。長州出身の吉田松陰(明治維新の精神的指導者)も水戸の弘道館で学びに訪れていた。
これも藩を超えた他流試合による武者修行。現代のレジデントも、優れた実力をつけたければ、他流試合による武者修行を行うとよいであろう。JCHO(独立行政法人 地域医療機能推進機構)病院のうち、東京城東病院などは、倶知安、鹿児島、水戸のように、他流試合による武者修行希望者を受け入れる体制が整っている。道場破りで我々を驚かすような、現代の武蔵の出現を期待したい。
一方で私は、吉川英治さんの小説「宮本武蔵」のなかで、武蔵の師匠とされた「沢庵」のような指導医を目指している。
医師プロフィール
徳田 安春 総合診療医
総合診療医JCHO研修センター長。1988年琉球大学医学部卒。沖縄県立中部病院にて臨床研修後、沖縄県立八重山病院、沖縄県立中部病院、聖路加国際病院、筑波大学附属水戸地域医療教育センター・水戸協同病院総合診療科教授から現職。沖縄県立中部病院に総合内科グループを初めて立ち上げた。水戸協同病院では、国立大学では初めてのテサライトキャンパス(筑波大学附属水戸地域医療教育センター)を設置し、1つの総合診療科を中心とした完全型Department of Medicine体制をとった診療・教育を行い、日本中に展開している。