目標は精神疾患の方の社会復帰
-小林先生が院長になられて5年、現在の山容病院の特徴を教えていただけますか?
私が院長に就任してから当院では、精神疾患を持った患者さんの社会復帰を最大の目標に据えた治療やその他のサービスを提供しています。
具体的には社会や家庭、地域へ復帰することを目的とした「精神科デイケア」や「グループホーム」、復職支援が専門のプログラム「リワークデイケア」、精神疾患により日常生活で支障や問題を抱えている方の「こころ」と「からだ」の機能回復を目指した「精神科作業療法」、アルコールの問題を抱えた方のグループ「SSA(酒田山容アルコール勉強会)」「CST(再飲酒予防トレーニング)」などです。
また、「患者さんが来たいと思う病院でなければ、医療すら提供できない」と思い、2015年9月に新しく病院を建て替えました。
-そもそも精神科医を目指したのはなぜですか?
東京大学医学部に入学後、病院実習が始まったころには精神科にかなり興味を持っていましたが、私はまだ新臨床研修制度が始まる前だったので、最初から精神科に進むと医師としてジェネラルに診ることができなくなるのではという不安が非常に強かったです。しかし、もともと高校までは、小説家や弁護士に憧れていたので、文系的要素のある精神科に興味があったので、最終的には精神科に入局を決めました。
―山容病院に行かれたのはどのようなきっかけだったのですか?
私は2度病院を退職して、自転車でシルクロード横断、オーストラリア横断を行っています。オーストラリア横断の際に、途中一度帰国したんですね。臨床から離れすぎないほうがいいと思ったのと、旅の資金を稼ぐため、3カ月限定で勤務できる病院を探していました。
期間限定ですと、なかなか受け入れてくれる病院がなかったのですが、たまたま山容病院で当直アルバイトをしている後輩の先生から紹介していただいて行くことになりました。3ヶ月だけ勤務した後、再びオーストラリア横断に戻り、帰国した際に常勤医として山容病院に就職しました。
病院はシステムから直さないと、変えられない
―山容病院の常勤医として就職したのは、人手不足だったからですか?
それもありますが、3カ月勤務していた時に、開放病棟の55名の患者さん全員の減薬に成功して、それがすごくやりがいがあったのです。そして、それを反論されることなくやらせてもらえたことが大きかったです。
2006年ごろですと減薬はまだ、周囲から嫌がられる行為でした。開放病棟の患者さんであれば、病状が落ち着いているのでそのまま薬もいじらないでほしいというのが、他の医療者の考えることです。私は研修中にある先輩から「薬はいじるな。肺炎や腸閉塞など何が別のトラブルが起こったときが薬を減らすチャンスだ」と教わりました。
しかし私は「減らすべきなのであれば今減らそう。できることは症状が落ち着いている時にこそやろう」という考えで、医師2年目の時から私が担当した患者さんに対し、前の先生が処方した薬は原則として全て止めて、自分が新たに処方して改善させていたんですね。ですから3カ月限定で山容病院に勤務した際担当病棟の患者さんにあまりにも薬が多く処方され全員多剤併用だったので、減薬を試みたのです。
減らしている3カ月の間は体調不良で減らすペースを落としたことはありますが、長期経過後の現在、とくに問題は起きていません。むしろ、薬を減らしたことで認知機能が上がったケースが多いです。
-常勤医になってから院長になるまでの経緯を教えていただけますか?
私が常勤医になり、医師が4名になりました。当時、山形県内の公立病院を定年退職されて来られた60代医師、院長の親戚の50代医師、40代の院長兼臨床医、そして30代の私とバランスが良かったです。しかし、50代の先生が体調を崩され辞めてしまいました。その後、東日本大震災があり心労もたまっていたのか、40代の院長兼臨床医も病院に出てこなくなってしまいました。
そんな中で、私は治療法や処方を変えたり、病院のダウンサイジングを進めようと試みたりしていました。徐々に山容病院の名前で私が講演に呼ばれることも増え、周囲からは一定の評価があったと思います。しかし院長は「患者さんが病院にいたいというならそのままいてもらえばいいではないか」という考えで、病院のダウンサイジングには全く理解を示してもらえず、変えてもらえる気配はありませんでした。
スタッフ向けに薬の副作用についての勉強会を始めた頃には、勤務医ができることの限界を感じるようになってきていました。例えば患者さんから「建物が汚い」とか「冷暖房の設定の調子が悪い」など、一勤務医としてはどうにもできないことを言われることもありました。そういうことを言われると、私は勤務医だから何もできないと割り切ることができず「何とかできないか」と考える性格で、勤務医の限界を超えたくなってくるのです。
このまま上から理解されずにやっていても現場のストレスになるし、病院はシステムから直さないと変わることができないと確信するようになって、あと2年やっても変わらなかったら転職をしようと家族で話し合っていました。その矢先に、急きょ私が院長になることが決まったのです。
酒田市のインフラの一つになる
-一番苦労したことはどのような点でしたか?
私が院長となり、当時70代になっていた先生と2人で病院を回さなければならなくなったときは、壮絶でしたね。3年ほどそのような状況が続いていましたが、その間1カ月ほどは私1人という時期もありました。当時は約270名の入院患者さんがいて、加えて外来も毎日ありました。火曜日と土曜日以外は毎日当直という生活でしたね。
その中でも理事会で「今の入院患者さんが現状を脱却するには、また、新しい患者さんを獲得していくためには病院の建て替えしかないので、私はそれに向けて頑張ります」と言い続けました。しかし、いくら自分の時間を犠牲に体力の限界までやっても、どうしても医師が不足していますから手が回らないところが出て来て、それによってスタッフへの負担が増し、批判が私のところに来ました。また、建て替えとなると当然お金もかかりますから、経営は大丈夫かというプレッシャーもあり、まさに孤軍奮闘という状態でした。
―そんな状況を乗り越えられたのはなぜだと思いますか?
シルクロードやオーストラリアなど一人旅でさまざまな経験をしたことが大きいですね。やはり一人自転車で旅していると全部自分の責任なんですよ。例えば、飲み物を入れている容器に穴が開いて、走っている間に水が全てこぼれて自分が飢えたとしても、誰にも文句は言えませんし、粗悪品だからと100キロ引き返して、あるいは日本に戻ってお店に文句を言うということはできません。結局、それを選んで使った自分の責任と思わないと旅は続けられませんでした。
しかし、ひたすら自分を責めていくと「自分はなんでこんなことをやっているんだろう」と挫折してしまいます。そうではなくて、自分の責任ではありますが、それを享受して前向きな気持ちに変えてまた走り続ける。そういうことを1万45キロやってのけたという事実が、院長兼理事長兼臨床医としての自分にいい影響を与えています。
-今後の展望を教えてください。
山容病院を、この地域に絶対的に必要なインフラとして確立させることが最大の目標です。病院とは消防署や警察署と同じで、ないと困るインフラであるべきだと思っています。そういった意味では「この精神科に入院するくらいなら、死んだほうがましだ」と言われているようでは、全くダメです。それでは医療として成り立ちません。
絶対的に必要な存在となるためには、まずはもっと敷居を低くしなければと思っています。医師も3名になり、スタッフの意識もかなり変わってきたので、医療レベルも良くなってきています。それに伴って良い人材も集まりだしていますから、自転車と同じく前進あるのみですね。
(インタビュー・文 /北森 悦)