「チャンスがあれば東北で働きたい」
―南相馬市に異動して3年。どのような活動をしているのですか?
南相馬では、臨床と研究を通して、地域に関わって来ました。臨床に関しては、外科医として、外来や病棟での診療の他、多くの手術に参加してきました。上司の計らいで執刀する機会も多くあり、貴重な経験を積むことができました。
研究に関しては、東日本大震災後の健康被害を軸に据えて、日常診療の中からテーマを見つけることを意識しながら取り組んできました。南相馬に赴任する以前は論文などほとんど書いたことはありませんでしたが、これまでに、筆頭として16本、共著も含めると40本以上の英語論文発表に関ってきました。赴任した当初を考えると、自分でも信じられません。若手の医師や研究者4,5名を中心とした小さなチームですが、指導者にも恵まれ、他分野の研究者の助けも借りながら、スピード感を意識しながら活動を続けています。
他の大きなトピックとしては、昨年末から今年の初めにかけて、双葉郡広野町の高野病院の支援を行ったことが挙げられます。福島第一原発事故後も避難せずに診療を続けてきた高野病院の高野英男院長が亡くなったことを受けて、他の有志と共に「高野病院を支援する会」を立ち上げ、運営継続のためのサポートを行ってきました。
今年の4月からは、乳がん診療を勉強するために、南相馬市立総合病院に籍を残した状態で、都内のがん専門病院で研修中ですが、12月には南相馬に戻る予定です。また、調査研究に必要な疫学や統計学のスキルを高める目的で、帝京大学の公衆衛生大学院に進学、現在大学院生でもあります。
正直なところ、自分がこのようなキャリアを歩むとは思ってもみませんでした。
―それまではどのようなキャリアを積まれてきたのですか?
2010年に東京大学医学部を卒業後、初期研修は千葉県旭市にある国保旭中央病院で行いました。研修の1年目が終わろうとしていた2011年3月に東日本大震災を経験しました。
ちょうど私は麻酔科でローテートをしていました。手術室の患者さんを安全な場所に避難させていると、救急外来の人手が足りないという情報が耳に入ってきました。病棟で担当している患者さんもいなかったので、救急外来の手伝いに行くと、津波で流された方がどんどん運ばれて来ました。気管挿管を試みましたが、患者さんの口の中が砂や泥にまみれていて、どこに気管があるか全く見えず、そうこうしているうちに、先輩医師に押しのけられました。医師として役に立てず、とても情けない思いをしました。
夜に帰宅してテレビをつけると、東北の沿岸地域が、津波に押し流されている映像が飛び込んで来ました。とてもショッキングで、「東北の被災地で何か自分にできることがあれば」と強く思ったことを覚えています。ただ、すぐ行くほどの気概もなく、1週間ほどすると徐々に病院には日常が戻ってきて、仕事も忙しく、その思いは風化していきました。
―福島県会津市の竹田綜合病院にはどのような経緯で勤務することになったのですか?
後期研修において、東京大学の外科専門研修プログラムを希望しました。3年間大学外の関連施設で研修を受けることになり、その研修先リストの中に、福島県会津若松市の竹田綜合病院がありました。東北の被災地で仕事をするという震災時の思いを実現するにはこのタイミングしかないと思い、竹田綜合病院を第一志望で提出、晴れて会津で3年間の研修を行うことになりました。
福島県で変わった意識
―本来は3年間、竹田綜合病院で研修予定だったということですよね。なぜ2年半の時点で南相馬市立総合病院に行かれたのですか?
外科研修を開始し2年が経過した頃から、研修が終わった後のことを考えるようになりました。それまでは、当然母校の医局に入局するつもりでしたが、その点も含めて悩むようになりました。
会津においては、消化器外科をメインに、特に腹腔鏡を使った手術のトレーニングを積んでいました。やりがいがあり好きでしたが、この先一生かけて腹腔鏡手術の腕を磨き続けていくほどには、自分には向いていないかもしれないと思っていました。腹腔鏡技術は上手/下手が比較的分かりやすい手技であり、自分の周囲を見渡しても、自分より上手な医師がたくさんいました。また、強い情熱を持った方々も多かったです。ずっとトレーニングを積んでいけばさらに技術が向上していたかもしれませんが、このような方々と比べた際、私はトップレベルを目指して研鑽を続けていく自信が持てませんでした。
そのようなことを延々と考えている時に、「福島県に来た動機の1つに、被災地の医療に貢献したい」という思いがあったことを思い出しました。ちょうど同じ大学の先輩方が、震災直後から福島県相馬地区において支援活動をされていたことを思い出し、連絡をとってみたところ南相馬市立総合病院を見学させてもらうことになりました。そこから話がとんとん拍子に進み、前の職場の上司は快く送り出してくれ、2014年10月から南相馬市立総合病院に勤務が始まりました。
―大きな被害を受けた沿岸地域で医療に携わりたかった―。
興味が先行していた部分もあったと思います。実際、入職直後は南相馬でどのようなことをしたいか、また、どの程度の期間勤務することになるか自分でもよくわかっていない部分はありました。今となってはすごく自分勝手な考えだったと思いますが、当初は外科医としてのキャリアに迷っていたこともあり、1年程度南相馬市で被災地を経験し、その間に自分のキャリアについて考えようと、ある意味モラトリアム期間のように捉えていたんです。
そんな意識で取り組んでいたこともあり、半年程経った頃に、当時お世話になっていた上司にこっぴどく怒られました。「そんな中途半端な気持ちで仕事をしていても何も成果はでないし、他のところに行っても同じだぞ」と。当たり前のことだと思いますが、そこで大きく意識が変わった気がします。
―そこから調査研究に携わるようになったのですか?
実際には、南相馬に赴任した時から調査は開始していましたが、より真剣に取り組むようになったと思います。南相馬での生活に慣れてきたこともあったかもしれません。
私が南相馬に赴任した時点で、放射線による健康被害が限定的であることは少しずつ共通認識になっていました。その一方で、放射線の被害によって被災地の方々の生活や健康に、どのような影響が生じているかという点については、十分に分かっていませんでした。むしろ住民の生活に震災の影響があることは明らかなものの、研究自体は行われていなかったと言ったほうが正しいかもしれません。そこで、このギャップを埋めることを意識しながら、これまで調査に取り組んできました。
1つ大きなテーマとして取り組んだのは、住民の避難に伴う土地や家屋の放棄によって起こった害獣被害です。また他のテーマとしては、高齢化や人口減少に伴う家族サポートの低下が、どのような健康被害を地域住民に及ぼしたかという点です。現在は、乳がん患者さんが震災後に健康診断をきちんと受けられていたのかを調べているところです。
復興の現場にいる人間としてできること
―昨年末からは、「高野病院を支援する会」の事務局長もなさっていますよね?
高野病院は福島第一原発から22㎞の地点にあり、故高野英男院長は、たった一人の常勤医として、震災後も避難せず、重症患者の診療を継続してきました。ところが2016年12月30日に自宅の火災で亡くなってしまいます。その結果、高野病院は常勤医が不在となり、当時102人いた入院患者さんの診療継続が危ぶまれました。
翌日、南相馬市立総合病院において行われた高野院長の検死に立ち会ったこと、また、理事長で高野院長の娘さんである高野己保さんと元々面識があったことから、他の有志の医師の方々と共に、高野病院を支援することになりました。現在は、院長も決まり診療が継続されています。ただし、その長期的な継続については、経営面の改善・安定も必要になってくるため、不透明な部分も残っていると思っています。
高野病院が直面した人的資源と経営の安定という問題は、日本中の医療機関が直面している問題です。そのため、高野病院を特別視するのはおかしいという声が上がっていることも理解できます。
しかし、高野病院が震災の影響を強く受けたことは紛れもない事実であり、また、福島第一原発事故後も採算が取りにくい中で診療を続けるなど、公益性の高い仕事を担ってきました。そのような側面にスポットライトが当たり、なんとか長期的に安定した支援が行われる体制が整って欲しいと願っています。
―それでは、今後の展望としてはどのようなことを考えていますか?
まず、診療に関してですが、福島県の中でも浜通りは、医療者の層が手薄な地域です。東京や仙台といった大都市圏と同じような医療レベルを達成することは難しいかもしれませんが、地元の方々の健康に貢献できるように今後もささやかながら関わっていければと考えています。
次に、研究に関してですが、福島の沿岸地域が震災で被った被害に関しては、今後も引き続きデータを残していく必要があると考えています。このようなデータは、地域住民の健康を守っていく上で基礎となります。加えて、調査データを論文として残していくことで、今後同じような災害があったときに、福島の教訓を生かし、被害を小さくできる可能性があるからです。
私が関わってきた震災後の社会変化による健康被害は、放射能それ自体の被害に比較すると、メディアなどで大きく取り上げられることは多くありません。しかし、日本の他の地域にも通じる非常に重要な課題が含まれています。今後も連続的にデータを残し、広く人々に伝えていければと考えています。
キャリアの中で、方向性に迷うことは少なくないと思います。しかし、結局悩んでばかりいても物事は前には進みませんよね。南相馬に来て感じたことは、1つ1つ目の前のことに取り組んで結果を積み重ねていくことの重要性です。そうすることで少しずつ次進むべき道が拓けて行くことを、この3年間で実感してきました。自分でも10年先にどうなっているか予想することはなかなか難しいのですが、現場で患者さんと関わることができる医師の強みを活かして、細くとも長く福島の復興に関わっていきたいと考えています。