「アフリカの子どもたちはかわいそう」は日本人の傲慢
―アフリカ支援をしたくて、医師を目指されたそうですね。
そうです。小学生の時にエチオピア難民支援に関するテレビ番組を見て以降、徐々に地球の裏側であるアフリカに一生関わっていきたいと思うようになりました。これが今でも原点です。そして高校生の時に緒方貞子さんに出会い、「現場で一人ひとりに関わっていくことも重要だけど、もっと川上のシステムを変えることも大事」というお話を伺いました。そのような仕事は外務省でならできるのではないかと考えて、最初は外交官になろうと決めていたんです。
しかし外務省の役割はやはり、日本の国益を最優先に考えること。その事実と自分の描く理想とのギャップを埋められず、内定直前に辞退することにしたのです。そこから一転、医師を目指し、1998年、受験勉強2カ月で群馬大学医学部の編入学生枠に合格することができました。そして卒業後すぐに、念願かなってアフリカ支援のため、ケニアに渡りました。
―アフリカ支援を実現してどうでしたか?
一番大きかったのは、価値観が変わったことです。アフリカに行くまでは、勝手に「地球の裏側はかわいそう、悲しい場所」というイメージを持ち、日本人医師として「何かをやってあげたい」という思いが強かった。しかし、現地の子どもたちの笑顔はたくさん見ましたし、皆自由に幸せに生きていました。学校に行けず働いていたり、生活のために売春していたり、レイプされて子どもを産むことになったり、HIVに感染していたりしても、その環境でも精一杯幸せに生きていたのです。日本の価値観で「幸せにしてやる」と考えるのは、非常に傲慢だと思いました。
アフリカに滞在してから、自分の幸せを押し付けるのではなく、他者の幸せは何だろうと考え、相手の価値観に寄り添った行動を心がけるようになりました。
政策の川上から川下へ
―帰国後、行政の立場で活動をはじめたのはなぜですか?
帰国し国内のことに目を向けてみると、障がい者の問題や医療福祉の課題、子どもも大人も笑顔を失ったり、幸せを感じられなかったりすることがあるなど、自国の日本にも課題が山積していることを痛感しました。そこで日本社会の仕組みづくりに関わり、少しでも一人ひとりの幸せに関わる課題解決をしていきたいと考えたのです。国会議員秘書や県議会議員の仕事、NPO法人で障がい者や地域の支援活動をしていくようになりました。
帰国後は出身地である三重県松阪市に住んでいましたが、松阪市にも財政に見合わない事業を次々と進め、地域の理解なしに保育園の民営化し、20年以上赤字経営の市民病院に何も施策しないなど、財政問題や医療福祉の問題が山積みでした。その状況から、まずは市民と価値観を共有したうえで一緒にマニフェストを作ったんです。市長になるつもりは全くありませんでしたが市民の後押しがあり、結果として33歳の時に松阪市長に当選しました。
―2期目の任期が残り1年の時に、山中先生が市長を続けている限り全ての議題を採決しないと議会が決定し、辞任されました。その後、医療の現場へ入ったのはなぜですか?
行政の立場で地域包括ケアを進めていましたが、やはり現場を知らない人間が施策しても机上の空論になってしまうとの思いがもんもんとあったんです。ちょうどその時、三重県四日市市のいしが在宅ケアクリニックの石賀院長から「短期間でいいから在宅医療の現場も見てみないか」とお声がけいただきました。
それまで一貫して川上のシステムづくりに携わることで、川下にいる人の幸せを実現していきたいと思い行動してきましたが、川下で直接一人ひとりに向き合い、寄り添うことを続けていくことでその取り組みが広まり、川上のシステムも変わっていけばと思い、いしが在宅ケアクリニックで在宅医療に従事することに決めました。
「永遠の偽善者」として他人の幸せに関わり続ける
―東京都江戸川区のげんきらいふクリニックの院長に就任した経緯を教えてください。
今現在、再び行政の立場に戻ることは全く考えておらず、医療の現場で地域住民に寄り添い続けたいと思っていますが、行政の立場を経験してきたからこそできることもあることも事実です。その1つとして、市長辞任以来、全国各地の行政職員の方と、それぞれの行政で市民の幸せを実現するための体制づくりについての話し合いや、講演会を毎週のようにしてきました。このような取り組みは続けていきたいと思っていて、立地を考えると東京に拠点を置いたほうが動きやすいと考えました。都内でクリニックを探していたところ、縁あってげんきらいふクリニックの院長として勤務することになりました。
―東京の在宅医療現場はどうでしょうか?
東京での在宅医療を始めてみて、四日市市は在宅医療の体制が非常に整っていたと感じましたね。東京にも在宅医療クリニックや、訪問看護ステーションなどプレーヤーは数多くいるのですが、連携が取れていなかったり、在宅医療を導入しているもののまだまだ病院中心の考えが強かったりしていると感じました。
例えば、90歳の認知症を治してほしいという家族や、90歳を超えているのに検査でがんと診断され積極的治療を望み、その結果体力が回復せずに寝たきりになってしまった患者さんなどに出会ってきました。もちろんできるだけ長く生きるために治せるものは治したいという気持ちも分かりますが、脳の萎縮や脳梗塞、臓器のがん化は加齢に伴う自然な変化であり、人としていつかは受け入れていかなくてはならない現実です。だからこそ、自然な老いの中ででてきた症状なので、うまく共存しながら残りの人生を幸せに生きていこうという考え方を多くの方々に感じていただく医療をしていきたいと思うようになりました。
また、四日市市の患者さんはケアする家族と同居している場合が多く、私たちも家族とのコミュニケーションが十分取れていましたが、東京は独居の方が多く、家族もすぐには来られない距離に住んでいることもしばしばあるので、どのようにして独居の方、そしてご家族をサポートしていくかが難しい課題です。
一方、医療介護従事者も玉石混交です。もちろんきちんと在宅医療に取り組んでいらっしゃる方もいますが、何かあると病院に送ればいいと思っている方もいます。病院側も「何かあれば、すぐ戻ってきていいからね」というスタンスの場合もあります。
私は、患者さんやその家族の思いを可能な限り受け止めて、ご自宅で最期の時を幸せな笑顔で受け止めていける環境を創っていくということが、在宅医療の基本的なあり方だと考えています。患者さんやご家族、ケアマネージャーや訪問看護師、病院スタッフ、在宅医療をしている医師の意識を変えていく必要がありますが、実現までにはかなりの時間が必要です。しかし同時に、大いにやりがいはありますね。
―最後に、これからの展望を教えていただけますか?
1つは、今お話したような在宅医療の課題を解決していくことです。そしてもう1つは、さまざまな企業や自治体を巻き込んだシステム作りです。
2017年7月に「自治体コンシェルジュ協議会」を立ち上げました。NTTやJTBなどさまざまな企業と自治体と連携しながらシステムづくりを進めているところです。これまで自治体には非効率な部分が多数ありました。そして、自治体単独ではそれらを解決できないことも分かっていました。
私は松阪市長時代に、松阪競輪を全国で初めて公営競技を実質民営化し、20年間続いていた赤字経営が民間の力で一年で黒字化しました。また、庁舎の耐震化に40億円かかるから70億円で建て替えたほうがいいとの安易な話が議会と行政で進んでいましたが、複数企業のコンペティションや市民への意見聴取をしたら、4億円で庁舎の耐震化ができました。
公平性中立性が害されるという理由で、長らく特定の企業のノウハウを入れることができていない自治体が多いかと思いますが、公的な中立性と公の役割を保ちながら市民のために民間の力を入れていくことは可能なのです。
自治体コンシェルジュ協議会では、市民の幸せ度を高めることを目標に企業のノウハウを使って効率のいい市民サービスを立ち上げていこうと考えています。企業や団体、大学などと連携した力を全国の地域マネジメントに生かしていきたのです。
私のモットーは「永遠の偽善者」です。自分の幸せや善人像は、明確に分かりませんが、他の人の痛みに寄り添い、笑顔に関わり、他の人の幸せに関わり続けたい。このようなきれいごとを、言葉として言い続けられるように「永遠の偽善者」として振る舞えば、それがいつかは他の人の幸せにつながっていくと信じています。そして、いつか自分の原点である「地球の裏側」の幸せに寄り添えるという生き方ができれば、幸せな人生だと感じられると思っています。