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INTERVIEW

げんきらいふクリニック

在宅診療

山中 光茂

永遠の偽善者として人の幸せを考え続ける

外交官内定直前に一転、医師になることを目指し群馬大学医学部へ編入学。その後臨床研修を受けずにアフリカへ渡り、現地住民のための支援プロジェクトに従事。帰国後には三重県松阪市の市長を7年務め、現在は在宅診療を行うクリニックの院長に―。異色すぎると言っても過言ではないキャリアを歩んできた山中光茂先生ですが、根底には一貫した想いがありました。

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「アフリカの子どもたちはかわいそう」は日本人の傲慢

―アフリカ支援をしたくて、医師を目指されたそうですね。

そうです。小学生の時にエチオピア難民支援に関するテレビ番組を見て以降、徐々に地球の裏側であるアフリカに一生関わっていきたいと思うようになりました。これが今でも原点です。そして高校生の時に緒方貞子さんに出会い、「現場で一人ひとりに関わっていくことも重要だけど、もっと川上のシステムを変えることも大事」というお話を伺いました。そのような仕事は外務省でならできるのではないかと考えて、最初は外交官になろうと決めていたんです。

しかし外務省の役割はやはり、日本の国益を最優先に考えること。その事実と自分の描く理想とのギャップを埋められず、内定直前に辞退することにしたのです。そこから一転、医師を目指し、1998年、受験勉強2カ月で群馬大学医学部の編入学生枠に合格することができました。そして卒業後すぐに、念願かなってアフリカ支援のため、ケニアに渡りました。

―アフリカ支援を実現してどうでしたか?

一番大きかったのは、価値観が変わったことです。アフリカに行くまでは、勝手に「地球の裏側はかわいそう、悲しい場所」というイメージを持ち、日本人医師として「何かをやってあげたい」という思いが強かった。しかし、現地の子どもたちの笑顔はたくさん見ましたし、皆自由に幸せに生きていました。学校に行けず働いていたり、生活のために売春していたり、レイプされて子どもを産むことになったり、HIVに感染していたりしても、その環境でも精一杯幸せに生きていたのです。日本の価値観で「幸せにしてやる」と考えるのは、非常に傲慢だと思いました。

アフリカに滞在してから、自分の幸せを押し付けるのではなく、他者の幸せは何だろうと考え、相手の価値観に寄り添った行動を心がけるようになりました。

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PROFILE

山中 光茂

げんきらいふクリニック

山中 光茂

1976年三重県松阪市生まれ。1998年慶応義塾大学法学部を卒業後、同年5月に群馬大学医学部に編入学。同大学卒業直後から、アフリカを中心とした途上国支援を続ける。2009年、33歳で全国最年少市長として松阪市長に就任、住民主体の地域づくりが評価されて、第5回マニフェスト大賞グランプリを受賞する。2015年9月まで2期市長を務めて辞任する。2016年1月から、三重県四日市市のいしが在宅ケアクリニックに医師として勤務しながら、全国各地で行政改革コンサルティングや講演活動を行う。2017年3月、東京都江戸川区のげんきらいふクリニック院長に就任、現在に至る。著書は「巻き込み型リーダーの改革」などがある。

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