7年目を迎えた市民活動の今
―現在取り組んでいるのは、どのようなことですか?
東日本大震災の翌年、2012年4月から南相馬市立総合病院に神経内科医として赴任、早くも6年が経ち、7年目を迎えました。当初は医療支援のために行ったつもりだったのですが、現地で診療をしてみるとすぐに、「医療支援だけではこの街の問題は解決しない」と気付きました。そして始めたのが、孤立男性のための「引きこもり(H)お父さん(O)引き寄せ(H)プロジェクト(P)(=HOHP)」という市民活動でした。読み方は”ホープ”。「希望」にかけています。
診療の傍ら約6年間、HOHPとしていくつもの活動をしてきました。この活動の変遷を見てみると、少しは復興の役に立てたかなと思えてきます。
―実際に、どのような活動をしてきているのですか?
最初に始めたのは「男の木工教室」でした。プロジェクト名にも入っているお父さん、つまり中高年男性世代は、阪神淡路大震災の教訓から孤独死率が高いことが分かっていました。特に、ひとり暮らしで慢性疾患を患っている方。そのような方が定期的な受診をせず、震災で家族も仕事も失い、もんもんとした思いを抱えながらあまり外出をせず、社会とのつながりが薄れていくと、やがて孤独死につながってしまう――。ちょうど、南相馬市でもそのような事例が出始めていました。
孤独死を防ぐためには、コミュニティの再構築が必要。そう思い、ひとり暮らしの中高年男性が外に出るきっかけになるように、男の木工教室を始めました。男性で物作りが嫌いな方はほとんどいないだろうと思ったからです。
男の木工教室は、毎週日曜日に集まって、テーブルやベンチ、棚などの木製品を製作をしています。完成した製品は、復興支援の一環で行政施設などに納品しています。
他には、長らく警戒区域に指定されていた小高区の住民に、地域の味を懐かしんでもらおうと、小高区で飲食店を経営されていた方を講師に、「男の料理教室」も開きました。あとは、書くことによって自分の考えを整理できるように「エッセイ講座」を開講しています。また、ランニングチーム「Team M4」を結成し、週1回のランに加えて、「避難解除復興祈念駅伝」を開催しています。
避難解除復興祈念駅伝は、2017年3月に第一回目を開催。分断されていた南相馬市の3つの地区、鹿島区・小高区・原町区を、1本のたすきをつないで走りました。第二回は2018年3月に開催。前年の3月に、一部の地域を除いて全域避難指示が解除された浪江町まで距離を伸ばして走りました。
最初こそ震災後の孤独死防止のため、コミュニティの再構築のために始めた活動でしたが、今では参加者のニーズが多様化しています。例えば、趣味として参加していたり、人のために役に立つと感じて続けていたり、脳梗塞を発症した方がリハビリとして参加していたり――。また、役割を終えたため終了した活動があれば、新たに始めた活動もあります。終了した活動の一例は男の料理教室。小高区の避難指示が解除されて、住民が戻り、飲食店も営業を再開し始めているので、始めた当初の役割は終えたと思い、終了しました。新たに始めたものは、駅伝ですね。「男の木工教室」と「エッセイ講座」は、現在も継続しています。
このように、それぞれの活動が、始めた当初の役割から少しずつ変化しています。そして参加者の目的が多様化してきている点が、街の復興が少しずつ進んでいることの証明になっているように思っています。
より自分が活かせると思う地に
―どのような経緯で南相馬市立総合病院に赴任することになったのですか?
私は比較的順調に大学医局の中でのキャリアを積んできたと思います。しかし准教授に就任した頃から、もんもんとした思いがありました。権威はありますが、責任も増します。教授と部下の間に立つ管理職的な役割も増え、だんだんと臨床現場から遠ざかっているような感覚がありました。もちろん、准教授はやり方によっては魅力のある役職だと思いますが、私にとってはあまり魅力に感じませんでした。
そうかといって、医療現場第一線で活躍し続けたいという思いが強かったわけでもなく、大学内での将来像が思い描けず、自分にはそのような役職は向いていないかもしれないと、漠然と思うようになっていたのです。
―そう思っていた時に、東日本大震災が発生した。
そうです。大学には自分の担当患者さんもいますし、震災直後、すぐに医療支援に行くことはしませんでした。しかし外勤先の病院で一緒に働いていた同僚医師が、南相馬市をはじめとして、津波と原発の被害を受けた地域の医療支援をされていたのです。そこで、彼が現地に行く時に一緒に連れて行ってもらいました。2011年8月、震災から5カ月が経過した時でした。
現地を車で回ったり、被災された方とお話をしたり、南相馬市内の病院の視察もしました。どの病院でも医師が減ったという話を聞きました。被災地を自分の目で見た後に自分の今の状況を見つめ直してみて、いったん医師としてのキャリアをリセットし、より必要とされる地で、臨床医としてやり直してみようと決意しました。
どうしても被災地支援がしたくて大学を飛び出した、という理由であれば格好いいのですが、決してそうではありません。今の自分の環境と、被災地の病院とを天秤にかけた結果、より自分が必要とされている、自分が活かせるのではないかと思えるほうを選択したまでです。だからもし東日本大震災が起こっていなかったら、同じタイミングで全く別の地に行っていたかもしれません。
しかし、行くからには何か残してこようと意気込み、2012年4月、南相馬市立総合病院に赴任しました。それでも、こんなに長くいるとは思っていなかったのです。というもの、あくまでも被災地の医療支援に行ったつもりだったので、2年くらいで別のところに移るだろうと考えていました。しかし冒頭でもお話した通り、医療支援だけでは、街は復興しない。そう気が付いて市民活動を始めたので、あっという間に6年にもなりました。これは想定外でしたね。
震災バブルがはじけた今の課題
―ご自身が南相馬に来たことで、地域の人にどうなってほしいという思いはありますか?
先程も言ったように、赴任当初はそれこそ「被災者が一日も早く立ち直り、住民一人ひとりが活躍して活気のある街にしたい」などと意気込んでいました。ところが、それは自分のおごり高ぶりだということに気が付いたのです。
それよりも県外から来た人間が地元の文化や伝統に触れながら、住民と一緒にワイワイ楽しく過ごすことが街の人たちを勇気づけることになり、それが復興への近道なのだと感じるようになりました。与えたり援助したりという行動ではなく「受け取る」という行動です。そのため、今はあまり肩肘張らずに、地元の人と一緒になって活動を楽しんでいます。
―そのように気が付いたきっかけはなんですか?
南相馬地域の伝統行事である「相馬野馬追」に参加するようになったことですね。相馬野馬追とは、鎧兜の装束をまとい若武者姿の住民が騎馬にまたがり、騎馬武者行進や甲冑競馬、神旗争奪戦を繰り広げる伝統行事です。
最初は、せっかく南相馬市に来たのだから地域の伝統に触れてみようと、軽い気持ちで馬引き(馬丁)役をやりました。ところがやはり、騎馬武者として出陣した方が断然格好いいし、楽しそうだと思い、乗馬の練習を始めました。地域外の人が相馬野馬追に出たいと言って必死に乗馬の練習をしていると、徐々に「小鷹さんも頑張っているのだから、われわれも一所懸命やらないといけないな」と、地元の人たちも元気になっていくのです。最初は自分のことを考えてはじめた乗馬ですが、やがて応援してくださる方の期待になんとしても応えたいという気持ちになってきました。そして自分が楽しむそのこと自体が、すごく地元の人を勇気づけると気が付いたのです。
ただ医療介護福祉面に関しては、担い手不足という課題が解決していないので、病院のみならず地域の人たちを啓発しながら、一緒に取り組んでいかなければいけないと思っています。
―具体的に、今の医療介護福祉はどうような状況にありますか?
医療面では、いわゆる”震災バブル”がはじけた状態。支援に来ていた医師の撤退もあり、2018年度には一気に医師数が5人減りました。ある意味、震災前の状態に戻ったとも言えますが、5人も減ると、どうしても現場の人たちの負担は増えます。
また医師が減ることで、研修医の人数も減ることを危惧しています。震災医療や多種多様な医師の考えを学びたいと思った研修医が、毎年2~3名ずつ来ていました。しかし医師が減ったことで研修医の指導が十分行えず、その結果、研修医が来なくなってしまうかもしれません。それを防ぐために、病院全体としていかに医療体制を立て直し、研修医も受け入れられるキャパシティを維持するかを考えなければいけないと思っています。
また、介護福祉に関しては正直、震災後からあまり大きく変化していません。施設は増えていますが、担い手が増えないので、結局新しい施設が完成しても、一部のベッドは使うことができずにいます。急激に増加している需要に対して、供給が足りていません。
この問題は、住民の方も巻き込んで解決策を考えていく必要があると思っています。例えば、第一線を退いた元気なアクティブシニアの方に介護資格を取得してもらったうえでサポートしていただくなど、住民同士がお互いに支え合う仕組みを構築していかなければ、南相馬市の介護福祉体制は立ち行かなくなります。私は講演会などで少しずつ啓発活動を行っていますが、今後も継続して考え、取り組んでいきたいですね。