事業で「子育てや出産前後の孤立」を解消
-橋本先生の、現在の取り組みを教えてください。
私は、2015年に「子育てにおいて誰も孤立しない社会の実現」という理念を掲げ「Kids Public(キッズパブリック)」を設立しました。
土日は定期・救急外来で小児科医として診療を行っていますが、平日は2016年5月に立ち上げたサービス「小児科オンライン」などの運営に携わっています。
「小児科オンライン」とは、育児に不安を抱えている親御さんがLINEのチャットやテレビ電話機能もしくは音声通話を使い、自宅に居ながらにして小児科医に直接相談できるサービスです。また、
子育ての孤立は妊娠期の孤立を発端とする場合があるので、2018年11月には、産婦人科医や助産師に直接相談できる「産婦人科オンライン」を立ち上げ、出産前後で悩むお母さんのサポートにも取り組み始めました。
現在、小児科医45名、助産師19名の計64名でシフトを組み、月〜金18-22時の間で相談に対応しています。この時間帯は通常のクリニックが閉まり、小児科の救急外来が一番ピークな時間帯を考慮しています。毎月、数百件の相談が寄せられています。
また現在は、民間企業や自治体から委託料を頂き、エンドユーザーである子育て家庭や妊婦さんは無料で利用できるサービスとして運営しています。ごく一部、有料で利用している個人(親御さん)のユーザーもいますが、基本的には無料利用できるユーザーを増やすべく、連携先を増やしてく方針です。
民間企業では、小田急電鉄や東急不動産などに、自治体では鹿児島県錦江町・埼玉県横瀬町・長野県白馬村に導入しています。今挙げた自治体は、いずれも小児科や産婦人科を専門とする医師が不在の自治体です。こうした自治体にICTを活かした相談窓口として貢献し、医療へのアクセス格差是正の1つのモデルとなればと思っています。
また当社では、この他にも小児科や産婦人科領域のよくある疑問などを解説している「小児科オンラインジャーナル」、「産婦人科オンラインジャーナル」 というWebメディアの運営や、医療者向けに産婦人科、小児科などの最新文献をシェアしている「Kids Public Journal」というメディアで発信を行なっています。どちらも臨床現場での経験、知識を持つ医師や助産師が執筆を行い、他の医師による編集と医療者以外による編集という、複数の目での確認を経た上で公開しているのが特長です。
-「小児科オンライン」を立ち上げる際、どんなところに課題を感じていたのでしょうか?
一番課題に思っていたのは「子育て・妊娠期の孤立」です。それを痛切に感じたのは、医師5年目でした。今でも鮮明に覚えている出来事があります。
当時、私は国立成育医療研究センターに勤務していて、救急車で運ばれてきた3歳の女の子を担当しました。脚がすごく腫れていて、レントゲンをみると大腿骨が骨折していました。原因はお母さんによる虐待でした。母子家庭でお母さんが誰にも相談できず、一人で仕事や育児を頑張ってきて、いろいろなことが積もりに積もってやってしまったんだろうなというのが、見ていてすぐに感じ取れました。
親や妊婦が孤立すると、子育て・妊娠期も孤立して、子どもに手をあげてしまったり、母親一人が悩みを抱え込んでしまったりします。こんな状況をみて、病気になった子ども、傷ついた子ども、孤立した母親を、病院という施設で待っているだけでは限界があると感じました。そして、もっと積極的に子どもを取り巻く環境に医師から接点を持ち、この課題を解決していきたいと思うようになりました。
研究テーマ「医療格差」をビジネスで追求
―これまでのキャリアを教えていただけますか?
小児科医を志したのは、「未来につながる診療科」だと思えたからです。子どもたちは未来そのものです。子どもが元気になれば、その子は80年、90年と健やかな人生を送れる可能性があります。そういう長い人生にわたって影響を与えることができる、他の科にはない魅力を感じました。
しかし、小児科医になって研修をしている中で、子育て期の母親たちの孤立を痛感するものの、診療現場では外来を受診した子どもたちや入院中の子どもたちに集中せざるをえず、それ以上に家族一人ひとりに踏み込んで診察することは、私の力不足もあり、なかなかできませんでした。
「いったい社会で何が起きているのか」「どのようにしたら今考えている課題を解決できるのか」。そういったことを知りたいと思い公衆衛生学の大学院へ。でも、最初は研究に取り組もうと思っていたので、起業までは考えていませんでした。
起業を考えるきっかけになったのは、大学院で出会った友人の存在です。彼はWebメディアを立ち上げて、ビジネスを通じて社会を変えていく「社会起業家」として活躍していました。私は、その時に初めてそういう人を目の当たりにし、自分自身も起業という選択肢を意識するようになりました。
そして2015年に起業。それまで全く起業を考えたことがなかったものの、サービスを開始したい気持ちが強く、起業時には、不安や迷いはありませんでした。医師として活動している時も、「患者さんの自宅とテレビ電話などでつなげば、こんなことができるのに」と思えるようなことがたくさんありました。例えば友人の子どもの病気なども、SNSで相談に乗っていたので、このサービスの実現の可能性は感じていました。
もちろん、ユーザー対象者のサービスへの認知や、スマートフォンの活用リテラシーという、さまざまな壁があると思いましたが、孤立・孤独を感じている母親がもっと小児科医を身近に感じることができる接点を、ICTを活かして作りたいという信念だけは、ぶれることがありませんでした。また臨床現場での経験だけでなく、大学院で「医療格差・健康格差」というテーマを学んでいたのも大きかったと思います。
サービスを立ち上げてから1年間程は連携先を増やすために、自治体や企業への営業に大部分の時間を使っていました。現在は営業を続けつつ、契約してくださった連携先へのサポートや事業の社会インパクトの測定にも力を注いでいます。
例えば、講演会の開催や、対面による住民の方への個別医療相談会などを行っています。やはり「小児科オンライン」を導入しても、サービスを知っていただいて使っていただけないと意味がないですから、社員や住民のお子さんの健康増進に貢献できる新たな施策を考えながら、PDCAを回しています。
- 会社はちょうど4期目に入ろうとしているところですよね。この3年間で一番苦労したことは何ですか?
苦労したのは、親御さんからの相談を受ける医師を確保することです。ただでさえ多忙な医師ですので、夜の時間を使って遠隔健康医療相談を行ってもらうのは難しく、人数は限られてきます。そもそも、1年間で生まれる子どもの数は約100万人に対して、小児科医はたったの1万6千人。人口比率に対して医師の数は少ないです。こうしたことから当然、医師の人数がボトルネックになるだろうと、当初から思っていました。
そのため、より多くの医師に参加していただくために、いかに医師にとって働きやすく、やりがいがあり、魅力的な事業にできるかを常に考えています。
自宅勤務が可能である点は、育児中の女性医師にとって働きやすいと好評をいただいています。また、事業の社会的なインパクトをきちんと評価すること、また学会発表を積極的に行うことも重要と考えています。
また私たちが提供している「小児科オンラインジャーナル」「産婦人科オンラインジャーナル」というメディアには、100本以上の記事が掲載されています。そのメディアをもっと活用して、よくある疑問や悩みは記事へ誘導するなど、相談内容に合わせて、限られた医師というリソースに頼りすぎず効率的に対応できる体制を整えていこうとしています。
大変ありがたいことに徐々に賛同してくださる方が増え、現在64名の医師、助産師に参加していただいています。現在も事業拡大につき、絶賛大募集中です。
産前産後の切れ目のないケアをオンライン上で実現したい
- 直近の目標として考えていることを教えてください。
まずは導入している自治体や企業で私たちのサービスの価値を確かなものにし、その価値を社会インパクトという形で表していきたいと思っています。提携先が増えたという変化だけでは、私たちの目標は達成できません。このサービスがいかに子どもや妊婦、子育て家庭の健康に寄与できたのかを数値として可視化し、結果にこだわっていきたいです。
そして、こうした成果は「小児科オンライン」と「産婦人科オンライン」が連携し、オンライン上での産前産後の切れ目のないケアを実現することで、より大きなものになると考えています。
私のアイデンティティは起業家というより、子どもたちの生涯にわたる健康の維持、向上を実現するために必要と思う事業を行う小児科医です。病院で行う医療以外にも小児医療に貢献する方法はあると思っています。
-このサービスを将来的にはどのように拡げていこうと考えていますか?
2018年には学会発表を2つ行いました。そうした学術的な活動を積み重ねて、事業が社会にもたらすインパクトを発信し、認知度をさらに高めていきたいと思っています。またサービス内容をブラッシュアップし、クオリティを保ちつつも、さらに多くの人にサービスを届けていきたいと思っています。
その実現にはエンジニア、研究機関、行政などさまざまな分野との連携が必要です。Kids Publicの良さは、既存の価値観にとらわれない柔軟性だと思っています。その柔軟性を活かし、さまざまな分野との連携を通して産婦人科、小児科がカバーする成育医療領域に貢献していきたいと思っています。時間を要すると思いますが、毎年産まれてくる約100万人の子どもたち全員をフォローできるように、突き進んでいきたいですね。
(インタビュー/北森悦、文/西谷忠和)