製薬企業内で役立つ医師のバックグランド
―現在の仕事について教えてください。
自治医科大学を卒業し、15年間、地域医療と医学研究に従事したのち、製薬企業に飛び込みました。
現在は、メルクバイオファーマ株式会社のメディカル本部長として、キーオピニオンリーダーからいただいたインサイトを収集し、臨床開発からマーケティング等を含む企業戦略に活用し、さらにそれを用いて患者さんに役立つ新たなデータを創出し、我々が製造販売している医薬品の価値を高めることを使命とする部署を統括しています。また、会社のビジネスのみならず、組織改革や企業文化の浸透をリードする立場でもあります。
これまで、約15年間の製薬企業経験がありますが、3年間は臨床開発、残りの12年はメディカルアフェアーズという領域で仕事をしてきました。
―そのような仕事をする際、医師というバックグラウンドはどのように役立ちますか?
1つ目の強みは、医療現場や患者さんのことをよく分かっていて、多くの関係性があること。また、医薬品の背景には最先端の科学やテクノロジーが使われていますが、そこでも医師ないし医学研究者としての経験が活かされています。
また、企業や組織にはさまざまな病理があると考えています。職場では、人間活動の多くの時間を過ごすことになるので、人間関係や組織に「病い」があれば、管理職として取り組む必要が生じます。臨床経験があると、このような「病い」の原因や、適切な処方が感覚的に分かるわけです。臨床経験を活かして組織の問題に取り組むことにより、単に医学専門家という枠を超え、企業における医師の存在価値を高められると実感しています。
また医師は日頃から、患者さんの病気の見通しを立て、よりよい治療を提供できるよう工夫します。この経験で培われた未来予測能力や構想力は、ビジネスをリードする際にも応用可能です。その意味でも、臨床経験を持つ医師が企業で活躍できる機会は大変多いと思います。
さらに医師は、臨床経験を通じて、患者さんについて真剣に考える姿勢や強い倫理観を醸成しています。昨今、企業倫理や患者中心の企業ビジョンが重視されつつあるので、医師という倫理的存在が大きく期待されているのです。
そして個々の患者さんの命を守り、生命の質を高めることは、社会全体に貢献することにつながります。「製薬企業は社会の公器」という私の恩師の言葉がありますが、企業が医薬品とその情報をしっかり医療関係者や患者さんに届けることにより、健康寿命を延長し、社会の発展につながるものと考えています。
このように、臨床医としての経験が、ビジネス、組織改善、そして企業文化の醸成に活かされていくのです。
―しかし、企業の中で活躍する医師はまだ少ないように思います。その要因は、どういった点にあるとお考えですか?
私が15年前に製薬企業に入った時は、企業で働く医師が増えていくと期待し、そのために貢献したいと思っていたのですが、ご指摘の通り、まだ少ないのが現状です。
要因の1つは、医療と企業で文化のギャップが大きいことです。私が管理職になって、医師の部下をマネジメントしはじめた時には、勇気をもって飛び込んだものの、このギャップを理由に1年以内に辞職し、業界を去っていく医師が半数以上を占めていました。
医療の世界はヒエラルキーやパターナリズムがいまだに強い傾向がありますが、企業では対等の横のコミュニケーションを通じて、チームとしてプロジェクトを成功させる意識が重要です。この意識を強く持つことが、企業の文化や環境に適応し、キャリアの第一歩目を上手にクリアするうえで肝要です。
より社会に大きなインパクトを与えられる仕事へ
―ところで伊藤先生は、なぜ製薬企業に飛び込まれたのですか?
いくつかの理由が重なって、この道を選びました。1つ目は、グローバル環境で活躍できる人間になりたかったこと。
2つ目は、大学で遺伝子治療研究を進めていた中で、臨床応用に極めて近い基盤技術に携わっていたにもかかわらず、医薬品として世に出すまでに大きなギャップがあったこと。このギャップを埋めるために、一度、製薬企業で臨床開発や上市方法を学び、その経験をアカデミアに持ち帰って活かしたいと考えていました。
3つ目は、臨床経験はすでに15年積んでいましたが、より社会に大きなインパクトを与えられるような仕事をしたいと思ったこと。「上医は国を医す」の精神で、目の前の患者さんだけでなく、より広い範囲で癒しを与える人材になりたいと思っていました。
時代的には、リーマンショックの直前で、日本の国際的・経済的地位が低下する予兆が現れていました。その頃に2人目の子どもが生まれましたが、このような日本の未来を予想しながら、自身がグローバル環境で日本のために挑戦しないなんて、子どもたちの世代へ顔向けができないという思いもありました。
これらの思いが重なって、当時の自分の研究テーマであったメタボリック症候群の治療薬を出しているグローバル製薬企業に入りました。
その10年後、他社の実績ではありますが、自分が携わっていた遺伝子治療技術が医薬品に応用されアメリカで上市されました。その意味で、グローバル製薬企業の社会に対するインパクトはやはり大きく、その世界に飛び込んだ自分の見通しは正しかったと実感しています。
―そうは言っても、当時企業に飛び込む医師は多くない中、その決断には勇気が必要だったのではないでしょうか?
製薬業界へのキャリアチェンジを考えていた時、60歳までの残り20年間で何を成し遂げたいかを考え、自分の強み・弱みの分析と合わせてロードマップを描きました。今振り返ると、結果的にほぼその通りに進むことができていることに感慨を覚えます。
明確な長期のキャリアイメージと社会貢献への強い思いを軸に、製薬企業に飛び込むことができました。また、明確なキャリアイメージがあったからこそ、自らの目標を見失うことなく、さまざまなチャレンジがあっても乗り越えられたと思います。
―では、先生ご自身の今後の展望はどのように思い描いていますか?
1つ目は、最先端科学に基づく医薬品やその基盤技術を持つ企業として、倫理面を含む科学技術リテラシーの向上に貢献することです。弊社のライフサイエンス事業部門はゲノム編集技術の特許を多く持っていますが、グローバル本社の医師は社会的・倫理的側面から様々さまざまな提言を行っています。このように、自社の製品・技術の理解と責任を持つ企業の医師が、社会に向けて提言するのは大変重要と考え、私も将来、そのような立場で貢献できることを希望しています。
2つ目は、臨床医の経験を活かして、企業と社員の心理的問題の解決に貢献することです。人工知能が急速に普及してゆく中、一人ひとりが活き活きと能力を発揮し、心理的安全性を担保しながら創造的に働く環境をどのようにつくっていくのかは、大変重要な社会的課題であると考えています。
これまで「倫理」と「心理」にこだわって仕事をしてきましたが、今後もそれを一層深めて社会貢献していきたいですね。
従来型の「こうあるべき」を捨て、自らのポテンシャルを活かしてほしい
―製薬企業を始めとする医療に関係する企業には、そこで活躍する医師がさらに増えた方がいいとお考えですか?
そう思います。医師のようなポテンシャルの高い人材は、変化の激しい時代においてもさまざまな場面で活躍できると思いますから。海外では以前より製薬企業内で活躍する医師が多いので、日本でもそうなってほしいですね。
医師のキャリアの多様性という観点からも、良いことだと捉えています。単にキャリアの選択肢が増えるだけでなく、製薬企業の医師が行政やアカデミアに移り人事交流が活性化されれば、組織や分野を超えた協調が促進され、社会全体によい影響を及ぼすと思います。
一方、日本では「臨床以外の世界に飛び込むことは片道切符」という意識が根強いように思います。また、企業で活躍する医師の情報が十分届いていないとも感じています。このような背景から、日本の医師は、キャリアチェンジのメリットよりもリスクの方が大きいと感じて、一歩踏み出すことに躊躇しているのではないでしょうか。その点を解消することも、製薬企業の医師としての私のミッションと考えています。
―最後に、後進へのメッセージをお願いします。
「自分が本当に何をしたいのか」を真剣に考え、キャリアイメージを明確にしていくことが良いと思います。そのためには、振り返りの時間を意識的に作り、常に新しい情報や出会いにオープンマインドで接するのが良いと思います。
また、過去の自分の成果に囚われていると、本当にやりたいことが見えにくくなるので、チャンスと思った時は勇気をもって新しい環境に飛び込むこと。自分が本当にしたいことが明確になっていれば、チャンスが見えてきますし、困難も乗り越えていけると思います。
さらに、時代の転換点についての認識も重要です。生成AIの急速な普及や地政学的リスクなど、世界や社会の変化と自身のあり方を結び付ける視点を持つとよいです。こういった転換点をチャンスととらえることで、さまざまな未来の可能性が開けてくると思います。
未来の可能性を見通す一歩として、医療や医師像に関する従来の見方を「括弧に入れて」考えることが必要です。そこでお勧めしたいのが、哲学です。私は10代の頃から哲学書に親しんできましたが、「哲学すること」で、臨床、研究、企業活動の多くの重要な場面でよりよい判断に結び付いたと感じています。多忙な医師が落ち着いて哲学書に取り組むのは難しいかもしれませんが、キャリアや時代の転換点においては特に有用だと思います。
(インタビュー・文/coFFeedoctors編集部)※掲載日:2023年9月13日