「医師」になるために大切なこと
研修医時代の奄美大島でのご経験が現在のご活動につながっていると思うのですが、当時どのようなことを感じましたか?
奄美大島に行くことになったのは偶然でした。大学卒業後、徳洲会の研修内容に興味があり福岡徳洲会病院に入ったのですが、研修項目の中に「へき地で一定期間過ごす」というものがあり、その時引き当てた土地が奄美大島です。そこで後期研修医や上級医がいる福岡の病院とは全く違うことを身を持って実感しました。福岡の病院では初期研修医が自分で判断してできることはとても限られていて、自分で判断して実践しようとしても上の先生にいつでも相談できるという環境です。福岡にいる時は、そのような環境はとても安心して勉強になる環境だと思っていました。
それが奄美の場合は、軽症だろうと重症だろうと、入ってきた患者さんを最初に診るのは自分しかいません。後日、上の先生に相談することや確認を取ることはできますが、島にいる先生たちは研修医の存在をとても尊重してくれているため、「あなたが主治医だから、あなたの範疇でやりなさい。あなたが腹くくってやってるんでしょ」と言う具合に、いい意味で突き放してきます。
突き放されることでとてつもないプレッシャーに襲われ不安にかき立てられ、患者さんのベッドサイドに行く回数が自然と増えていき、そこで初めて「自分は主治医である」ことを実感しました。福岡にいた1年数カ月の間は、自分は主治医だと思っていたけれども実はそうではなかったということに気付かされ、命を背負うということの重さを強く感じました。
また、奄美は高齢者が多いため患者さんが目の前で亡くなることも多く、家族の方が泣きながら「最後先生に看取られてよかった」と言ってくださったことがあったのですが、そのような経験は一度や二度ではありませんでした。それまで自分が学んできて偉そうに言っていたことを、お線香をあげる度に亡くなった患者さんの人生に当てはめて考えてみていました。そして医学ではできないことも実は意外と多いということや、その中で大切なのは患者さんとのコミュニケーションだということに心の底から気付かされました。
奄美大島での経験は、それまで「医学を学んだ人」だった自分を、初めて「医師」にしてくれたと思います。自分はたまたま奄美であっただけで、北海道などの他の地域でももちろんいいと思いますが、このようなへき地医療は全員が当たり前に経験するべき環境ではないのかと感じました。
なぜ奄美大島に戻ることにしたのですか?
その後福岡に残り1年間内科を経験して力をつけ、研修4年目に半年間、2年目のリベンジマッチとして奄美にもう一度戻りました。研修医時代に合わせて8カ月間経験した中で、研修医がへき地で医療を学ぶ環境を整えるには、へき地という環境を理解してくれる教育者がもっと必要だと感じました。そこで、まず自分自身が修行をしてまた奄美に戻ってこようと決意しました。
修行場所として診察や回診をしっかり行っている病院を探していたのですが、その時ふと医師になって初めて買った感染症レジデントマニュアルに、診察のことがとても丁寧に書いてあったことを思い出しました。その本を書いた先生というのが市立堺病院(現堺市立総合医療センター)の内科部長の藤本卓司先生(現北野病院総合内科部長)です。早速コンタクトをとって直接会いに行ったところ、びっくりするほど丁寧に診察されていて、この人の下なら学べると思いました。ここで修行させてほしいと、3年間この病院で診察の技術を盗むだけ盗んで帰ろうと思うのですがそれでも受け入れてもらえますかと面接で伝えたところ、快く迎え入れてくださって、堺病院で修行をさせてもらえることになりました。
丁寧な診察を全国へ広げる
どのような背景から堺病院で診察教育を始めるようになったのですか?
入った後に知ったのですが、堺病院は「丁寧に診察をする病院」としてのうわさが多いこともあり、特に初期研修医が集まる、研修で有名な病院でした。診察が丁寧といわれていたゆえんとして、診察の研修を大々的に行っていた川島篤志先生(市立福知山市立病院)や、志水太郎先生(現東京城東病院内科チーフ)の功績が大きかったのですが、私が堺病院に行った年に、この二人の先生がいなくなってしまったのです。川島先生が後期研修医を集めて感染症小テストを定期的に行うなどされていたのですが、このような診察について研修できる場が一切なくなってしまいました。
そのうち堺病院に後期研修医がどんどん集まるようになっていったのですが、後期研修医は初期研修医と違い、指導が少し難しくなります。私が堺病院に入り3年位たった頃、初期研修で診察の指導を受ける機会がほとんどなかった後期研修医が一気に増えたことで「診察を丁寧に」という堺病院の伝統がみるみる崩れていっていたことに気付き始めました。みんな検査の話に夢中になってしまっていたのです。
この状況は本来の堺病院の姿とは違う、ここは診察が丁寧で有名な病院だったはず。そう感じて、何かしなくてはという思いにかられました。そこで始めたのが後期研修医限定で診察を学ぶ「フィジカルクラブ」という部活動です。「研修医向けにやります」と言っても後期研修医は恐らく来てくれません。初期研修医にどんなにフィジカルの面白さを伝えても、後期研修医に火がついていなかったら全部消されてしまい、いくら診察を学んでも伝統として残らないと思い、後期研修医だけ集めて開催しました。
そこからどのように全国に活動を広げていったのですか?
指導医仲間のつながりから外部で行う機会があったことから、いろいろなところから「うちでもやってくれ」と声がかかり始めて、今では毎週末奄美から全国あちこちの病院に出向いて行っています。「東京フィジカルクラブ」や「神奈川フィジカルクラブ」といった具合に、各地域ごとの名前をつけて開催していたのですが、そうなってくると、部活動だし、全国大会がしたいよね、ということで、去年加計呂麻(かけろま)島で、ジャパンフィジカルクラブ(JPC)を開催しました。
皆で技術を高め合い甲子園を目指そうという意気込みであるものの、単なる細かい打診ができるようになるだけではつまらない、スピリットの部分を大切にして感動を生む会にしたいと準備を進めました。そこで「誰がきて何をするか」などというプログラムの宣伝よりも、「医の原点と身体診察をとことん追求する」という勉強会の理念を、毎週全国各地で活動するたびに伝えていきました。その結果全国から総勢100名を超える医師と研修医が奄美大島の小さな島に集まりました。
各地でさまざまな勉強会が増えている中で、参加費は無料ながらも交通費などで下手したら10万円近くかかるところを自腹でこれだけ人が来てくれるということに、とても大きな意味を感じました。日本全国から集まった医師や研修医を変えることができたら日本の医療が変わる可能性がある、こんな小さな島でも日本の医療を変えることができると感じました。
みんなで医療を「温かいもの」にしていきたい
今年もJPCが開催されますね。
今年は「地域でやること」を概念としています。商工会・青年団の会長さん、地元ラジオ局の方、観光協会の方などの地域メンバーで実行委員を立ち上げて、副実行委員長には市議会議員の方に就任していただきました。実行委員を島をよくしていきたいと思うメンバーで結成することで「奄美大島全体で取り組んでいる会」と捉えてもらいたい、こんな小さな島から日本の医療というものをみんなで考えていきたいんだ、という思いを全国に伝えていくことが今年のJPCでの一番大きな目的です。
というのも単に医者が一方的に騒いでいても何も始まらず、地域医療を変えていきたいという思いは、地域と一緒に行動しないと変わらないからです。地域格差は奄美大島の中にもあり、医師不足も慢性的にあります。奄美市内は医師が潤っていますが、喜界島では8千人くらいの住民がいるのに対して病院は一つのみで、さらに限りなく少ない医者や看護師がまわしています。このような医療的な危機を地元の方は案外知らないことも多いので、住民からの医療の要求に答えられない場合にトラブルが生じてしまうことがよくあります。地域医療の課題を何とかするために医者がもっと頑張ることも必要だとは思いますが、行政や地域の方たちにも一緒に考えてほしいと思いました。
離島はこんなに苦労しているという面をいくらアピールしていても、離島医療は良くならないと思います。それよりは、離島は医師の原点を学ぶことができる、こんなにも素晴らしい環境が整っているというアピールをしていくべきだと思うんです。自分が良くしていきたいと思っているのは奄美だけではなく日本の医療で、そして日本の医療を変えられるのは奄美のようなところだと本気で思っています。だからこそ地域の方々と一緒にJPCを作り上げていきたい、と議員の方や地域の方々に思いを伝えていったところ、最初は圧倒されていましたがとても共感してくださり、県議会や地方のテレビ局にまで掛け合ってくれるなど壮大に協力してくださるようになりました。
現在主に教育者としてご活動されていますが、今後どのようなことを目指されていますか?
診察するにあたり、一般の方をもっと巻き込んでいきたいです。大勢で回診すると、「自分は実験台じゃない」と煙たがる患者さんが中にはいらっしゃいます。もちろんそのような思いは当然あってもいいと思うのですが、患者さんにとっての敵というのは、医師ではなく病気です。そして、その病気のことを一番教えてくれるのは、医師にとっては患者さんなのです。だからこそ患者さんと研修医と指導医のトライアングルで病気を退治していくという体制を作りたい、そのためには患者さんの理解も必要と思っています。
名医というものは、患者さんの思いを理解し、患者さんに「手をあてる」医師であると私は考えています。難しい手術ができる医師だけを名医とするのではなく、医師全員がその患者さんにとっては名医となるような関係作りができるようになることで、10人100人と言わず全部の医療が温かいものとなっていくことを理想としています。そのためには医療者でだけ、主治医と患者さんだけで話をするのではなく、家族あるいは地域住民を含めてタッグを組んで患者さんの病気を取り出していくという体制を作っていきたいです。そのような関係作りが最終的に日本の医療を変えることだと思っています。
若手医師にはどんなことを伝えていきたいですか?
細かい検査・病態についての勉強も必要な時はありますが、それよりはどうやったらベッドサイドに行く機会を増やせるかということを教えていきたいです。若手医師は検査の異常にとても敏感で、不安になりますが、検査に異常値が無ければ患者さんの異変が逃されやすくなります。実は患者さんとのトラブルは問診や診察不足から生まれることも少なくはありません。一つでも多く使える診察手技があったら患者さんに話したり聞いたりする内容も自然と広がるので、コミュニケーションに役立つことを教えていけたらと思っています。診察というと、診察で分かったから検査をしなくて済んだよねというような医療費削減の話をされることもあるのですが、自分はコミュニケーションをとるための一つの手段として診察というものを位置づけたいです。
奄美のようなへき地で過ごす機会があったら、患者さんに対しての思いを描いてほしいです。そして診察もこうすると楽しい・分かりやすいというように、一度一度の診察に思いをはせてほしい。患者さんの変化が診察で分かった時には、患者さんともその感動を共有してほしい。このようなことが実は奄美が教えてくれることなのだと思います。
インタビュー・文 / 左舘 梨江