情報を与え、薬を薬にする仕事
—現在の取り組みについてお聞かせください。
臨床薬理学の専門医として、大分大学医学部臨床薬理学講座教授、臨床薬理センターのセンター長、総合臨床研究センターのセンター長をしています。総合臨床研究センターと臨床薬理センターがありますが、前者は臨床研究を支援するための場所です。後者の方では、診療科として保険診療も研究もします。そしてアカデミア発のグローバル創薬にチャレンジし、人材育成にも取り組んでいます。
行政や大分大学以外の研究機関、団体の活動をアドバイザーとして支援する機会も多いです。2017年には大分大学医学部発のベンチャー企業、株式会社大分大学先端医学研究所、ARTham Therapeuticsも設立しました。そちらでも医薬品開発研究を進めています。
—臨床薬理専門医として、どのようなことをされているのでしょうか。
「物としての薬を、情報を持った薬にすること」が我々の仕事です。アメリカにいた時の上司が会話の中で「薬を薬にする(making drug a drug)」といったのを聞いて、まさにそれだと思いました。薬とは、試験管の中で化合物ができたらそれで薬になるというものではありません。使い方や情報が重要です。薬に情報を与え、医薬品の適正な使用につなげる。臨床研究をしているのが我々です。
知識だけではなく経験も必要ですし、非常にたくさんの医師、また医師以外の専門家と連携しますのでコミュニケーション能力やリーダーシップも求められる分野です。日本には30万人の医師がいますが、日本臨床薬理学会が認定している専門医の数は200人弱。野生動物ならばレッドリストに入るくらい少ないのですが、欧米の医療者の中では広く認知されています。
私たちの仕事の中でもユニークなのは、早期探索的な臨床試験として行うファースト・イン・ヒューマン(first-in-human、ヒト初回投与試験)でしょう。試験管の中にできた医薬品が、人に届くまでにはたくさんの研究、動物での研究が行われます。初めてヒトに数ミリグラム飲んでもらう日がセットされたら、そこから逆算して何月何日までに何をやってとプロジェクトマネジメントされる。あるプロセスがうまくいかないと、全てのプロセスの実施日時が修正されて、もともとセットされたヒトへの投与日に確実に実行できるようにします。他の研究プロセスとは異なり、非常にダイナミックだと感じています。
動物でできたことがヒトだと再現できないということはよくあり、だからこそ我々は「この薬を安全で有効に患者さんに効く可能性があるか」を見極める臨床試験を、臨床開発の早い段階で比較的小さな規模で組んでいきます。そして、その小規模な臨床試験が成功した瞬間、新しい治療薬が誕生していくわけなので、この瞬間が早期臨床開発の中で非常に大きなアチーブメントになります。その意思決定が我々のもっとも重要な仕事です。
これらの意思決定が曖昧では、患者さんに迷惑がかかりますし、安全でも効かない投与量で治療しても意味がない。「どうなるか分からないけどとりあえず患者に使ってみればいいじゃないか」というマッドサイエンティストが出てきても困りますよね。
正確な予想を立て、科学的に、倫理的に、安全に臨床試験を実施していくのが我々のプロフェッショナルなレベルの仕事です。基本的に私たちの世界では、想定外のことはなるべく起こさないようにしないといけません。すべてが秩序を持ちながら進んでいく世界なのです。欧米の製薬企業のようなドラッグディスカバリーから早期臨床開発までを俯瞰的に理解し、リスク管理、プロジェクト管理できる専門知識をもった人材が求められます。
帰国したのは薬を創る人を創るため
—臨床薬理学に興味をもったきっかけを教えてください。
大分大学医学部(卒業当時大分医科大学)で医師になりました。学生時代の実習で精神科をまわった時に、統合失調症の患者さんを実際にみたことがきっかけです。
医学生として統合失調症の教科書的な知識はもっていたものの、実際に患者さんをみたら衝撃を受けました。当時、脳内の色々な化学伝達物質の受容体側のことが次々に明らかになり、これからは脳の時代だという論調がありました。その頃の精神科領域は、今以上に薬物治療が中心だったこともあり「脳のネットワークを理解すれば薬で治るはずだ!自分が治そう!」と思ったんです。精神科の教授に相談したところ、「そう簡単には治らない」と言われたのですが、それでも当時の私は若く「できるはずだ」と思ったのです。その後、大学の臨床薬理学の教授に相談しながら自分の進むべき道を考えている時にそのようなことを相談したら、「それは臨床薬理だよ」と言われ、この道に進みました。
—1998年からはカリフォルニア大学サンフランシスコ校(University of California, San Francisco)に留学されます。
卒業後は2年岡山大学の第一内科とその教育病院での研修を経て、2年目の終わり頃から岡山大学の神経内科のラボで覚せい剤(メタンフェタミン)に誘発される脳細胞の変性と関連した統合失調症のモデル化の研究を始めました。その後、1995年のアメリカの臨床薬理学会誌に掲載された論文で、後の私のボスとなるジョン・メンデルソン先生(当時、カリフォルニア大学サンフランシスコ校(医学部)准教授)を知ります。メンデルソン先生は、内科医でありながら覚せい剤の中枢と心血管系への作用を明らかにする臨床薬理学的研究を展開していました。日本では出来ない取り組みに興味を持って、カリフォルニアに行こうと決め、1998年からカリフォルニア大学サンフランシスコ校の臨床薬理専攻のフェローになりました。2004年までメンデルソン先生の元に、その後は縁あってメルク社(Merck & Co)のGlobal薬品開発のセクションで、臨床薬理部門のディレクターをしました。ラッキーなことに、私は多くの方と関わりながら、メルク社で画期的新薬を世に出すこともできました。
—メルク社を辞め、大分大学に帰ってくるのは大きな決断だったのではないでしょうか。
普通に考えたら、薬を作りたければ製薬企業にいたほうがいいです。メルクにいた方が扱う研究費も大きく、場合によっては2桁違います。研究を続けたかったら、メルクに残っていた方がよかった。それでも帰ってきたのは、人材の育成をやりたいと思ったからです。帰国は、渡米以上に大きな決断でした。
学生時代からの恩師である中野重行先生にも相談したところ、「薬をつくるだけなら製薬会社にいた方が良いでしょう。でも上村君はもう薬を創っている。薬を創るだけでなく、薬を創れるひとをつくるのが教育。それができるのは大学では?」と言われたんです。帰らなければいけないと思ったのです。1つ危惧したのは、大学に戻ると他の医師以外のさまざまな研究者との連携が弱くなること。それを解決しようと着手したのが、創薬化学と橋渡し的生物学的研究をになうトランスレーショナルケミカルバイオロジー研究室を中心としたドラッグディスカバリーセンターの設立です。
医薬品開発クラスター構想で
—今後は大分大学で、研究開発とともに人材育成に注力されていくのですね。
医薬品開発の機能を集積する「医薬品開発クラスター構想」を、大学の中の目標に掲げています。トランスレーショナルケミカルバイオロジー研究室に加えて、必要な非臨床研究を行い、早期探索的臨床試験までの道筋をつくるトランスレーショナルクリニカルサイエンス研究室、さらに開発薬事や開発戦略をマネージするためのトランスレーショナルストラテジーマネジメント研究室をつくりました。それら新しい組織に教員をを配置して、ドラックディスカバリーから臨床試験まで一貫して1つの組織の中でできる仕組みを作ろうとしています。
クラスターのミッションにはには人材育成も含まれます。プロが育つには、知識だけでなく経験が必要だと思います。若い人にプロジェクトを経験してもらうために、プログラムの最初の仮説の設定から関わってもらい、戦略の立案にも十分な時間をさけるような体制をつくりたいと思います。新しい薬を薬にしていくには、新しいアイデアが必要です。大分大学にはこれまで出来なかったことを可能にして、新しい薬を創出していく技術があります。細胞膜の中のタンパク質をターゲットにした医薬品開発です。多くの薬は細胞膜上にのったタンパク質に作用しますが、細胞膜の中でタンパク質とタンパク質が出会う時、様々なシグナルを出し、様々な機能を制御することが分かっています。さらに、中でも天然変性領域という構造を持たない分子が、重要な役割を担っていることが分かってきました。
天然変性領域のユニークな立体構造に注目し、私たちが持つプロテインのデータベースをスクリーニングしたところ、231のタンパクについては我々の技術でほぼ確実に阻害薬ができることまで分かっています。これだけの規模のターゲットを同定している組織は、メガファーマでもあまりありませんし、アカデミアではありえません。これを事業化するために、大分大学発のベンチャーを設立。ここを育成の場とし、適切にガイダンスしつつ、若い人たちが中心となって動く組織にしたいです。
—今後の臨床薬医学についてどうお考えですか。
薬の定義も変わってきています。今までは薬と言えば飲み薬や注射でしたが、分子になったり、ペプチドや抗体のような高分子のものが新薬開発の主流となりつつあります。最近では抗体にさまざまな薬を抱合させたりすることで、治療標的を狙い撃ちする技術も出てきました。そして、細胞そのものを使った細胞治療も始まっています。これらが主流になると、臨床薬医の「薬」の幅はさらに広まるでしょう。それでも薬に関する基本的な考え方は変わらないと思います。科学的に、安全に、倫理的にやる。その根っこの部分を大学で教える必要があると考えています。
最近の医療の多くの診療科は、臓器別の診療になっていて、専門医制度もまた臓器別の考えになりつつあります。それはそれで必要なことですが、私たちのようにさまざまな治療領域を横断する分野も、もっとあって良いと思っていますし、将来的にはもっと増やさないといけません。ですからまずは大分大学で、若い人たちで動かしていけるような組織をつくっていきたいですね。そして医師だけでなく、さまざまな分野の人にも関わってもらい、ダイナミックに動ける大きなチームにしていきたいと考えています。早期開発は、1人ではできないですからね。
(インタビュー・北森 悦/文・塚田 史香)