公衆衛生学の面白さと“当たり前”を伝える
―さまざまな職責をお持ちですが、まず、大学教授としての活動について教えてください。
2011年に創設された帝京大学大学院 公衆衛生学研究科で教授をしており、そこで公衆衛生ではなく、医療経済学や経営学を教えています。また、学内の「グローバルオフィス」という部署で、学生や大学院生の国際交流について取り仕切っています。
公衆衛生学というと「国家試験に出る科目の1つで、つまらないもの」と思われがちです。ところが、国家試験の出題範囲は公衆衛生学の本当にごく一部。本当の公衆衛生学は多くの患者、さらに健康な方もサポートできる学問で、そこに関わる分野なら、どんなものでも公衆衛生学に入るのです。ですから私のように、経済学や経営学を研究し教える者もいます。
その幅広さ、面白さを理解してもらえるよう、学校の宣伝も兼ねて、PR活動にも非常に力を入れています。当研究科の創設から昨年で10年。在校生も増え、少しずつですが、成果が出てきたのではと実感しているところです。
―医療経済学や医療経営学を教える中で、どういったことを重視されていますか?
医師になろうとする人が歩む道は、ある程度決まっています。進学校に入学し、場合によっては予備校にも通い、医学部に進学。国家試験に合格し、大学を卒業すると病院で研修を受け、専門医になる。けれど、それだけですと経済的、世間常識的な感覚が育ちにくい傾向があります。
例えば、医師という職業は性質上、倫理や使命感が先に立ってしまいがちです。しかし、きちんとした医療を行なうためには、どうしてもお金が必要です。若い医療従事者に、そういった“当たり前”の感覚を身に付けてもらうことに注力しています。
―医療経済、医療経営という観点から見た日本の医療が抱える課題は、どのような点にあると考えていますか?
大前提として、医療制度のサスティナビリティは大きな課題です。公的年金制度、医療保険制度が現行の形でいつまで継続していけるのか……。多くの方が、その脆弱性に気づきつつも、見て見ぬふりをしておられるのではないでしょうか。
また、医療の効率性や生産性も課題で、私はその測定を研究のメインテーマとしています。効率性や生産性という言葉は日常的に使われますが、実際にはそれをどう測り、どう数値に落とし込むのか。臨床の現場で「もっと効率よく働きなさい」と指示されることは多いと思いますが、「今の生産性が『5』だから『10』に上げよう」といった具体的な数値目標は設定はされていません。すると、生産性が上がったのか測れず、改善したかどうかも分かりません。それを定量的に数値化しようとしています。他の経営分野ではこのような手法が用いられているので、それを医療にどのように応用していけるのか、さまざまな方向性を探求しています。
政策やビジネスの観点から見て気づいた常識
―そもそも、なぜ医師を目指されたのでしょうか?
高校が進学校で「医学部に行くのが当たり前」という雰囲気で、正直に言うと、なんとなく東京大学医学部に入学したのが始まりです。親戚に医療関係者がいるわけでもなく、医師の仕事や生活についても何も知りませんでした。大学在学中もアメリカンフットボールに熱中。ですから病院勤務を始めてから、その責任の重さや過酷な労働環境に「これは大変な仕事だ」と驚きましたね。
―大学卒業後はどのようにキャリアを築かれたのですか?
帝京大学医学部 附属市原病院(現・ちば総合医療センター)の麻酔科で1年間、研修医として勤めました。麻酔科を選んだのは、留学できるカリキュラムがあったからです。それまで海外へ行った経験がほとんどなく、一度は留学してみたいという思いがありました。海外のことを知っておかなければ、これからの時代は困るのではと考えていたのです。
実際に研修後、マサチューセッツ総合病院で3年間レジデントを経験し、その後は現地のビジネススクールへ。2年間学んでMBAを取得して帰国し、ちば総合医療センターに戻って再び麻酔科に勤務しました。1997年からは上司の薦めもあり、働きながら東京大学経済学部に学士入学。2002年からは、ちば総合医療センターで副院長を務めました。
その後、2006年に帝京大学 医療情報システム研究センターでセンター長に就任。こちらの職務は現在も続けています。これと兼務する形で2011年から、帝京大学大学院 公衆衛生学研究科で教鞭をとるようになったのです。
―ビジネススクールに行かれたのはなぜですか?
当時はクリントン政権下で、アメリカでは医療改革の気運が高まり、政策によって病院内が目まぐるしく変化していった時代でした。そのような中で臨床現場にいたので、自然と医師であっても経営や経済の知識が重要になっており、学ぶ必要性を感じたのです。
実際、ビジネススクールに入学してみて、医療の世界では医師が全ての中心のような気になってしまいがちですが、決してそうではないということを痛感しました。外の世界へ出て、政策やビジネスという観点で病院全体を見渡すと、それぞれに異なるプロフェッショナルがいるということがよく分かったのです。普通の社会人にとっては当たり前の常識に気づけたというか、物の見方が大きく変わった貴重な経験でした。
診療報酬制度を需要と供給のバランスの上へ
―研究を続けられる中で、医療にどのような変化をもたらしたいと考えていますか?
1つは、診療報酬制度の改革です。経済学的に見ると、商品やサービスの価格は本来、需要と供給のバランスで決まります。生産性が高いもの、効率が良いサービスが高い報酬を受けるのが原則です。
ですが、日本の診療報酬制度はその原則には則っていません。厚生労働省が”価格付け”を行ない、その根拠が必ずしも明確ではないですよね。そうやって個々のマーケットの需要と供給とは全く関係のないところで価格が決まるので、さまざまなひずみが生じているのです。例えば、本来なら市場から評価されることによってより高額な対価を得るべき医療機関や医師が、必ずしもそうなっていなかったり、病院に行列ができて長時間待たされたり、場合によっては必要な医療が手に入らなかったり。
医療とはいえ、価格メカニズムを考えることは非常に大事で、本来のマーケットにもう少し近いような形で、医療が欲しい人がきちんと適正に手に入れられるようになればと思っています。世界に目を向けると、日本で当たり前と思っている医療の提供方法とは全く違った方法もあります。日本の医療提供の形だけが、ベストでも唯一でもありません。
研究の成果がそういったメカニズムの改革につながることが夢ですね。実現すれば、日本の医療にイノベーションが起きる可能性も高くなるのではないでしょうか。
―最後に、これからキャリアを積んでいく若手医師に向けてアドバイスをお願いします。
ぜひ、恐れずにリスクを取ってください。安定を求めて医師になる方も多いですが、実は医師は、非常にリスクを取りやすい職業です。まだ若いうちに専門医の資格もとれますから、独立しやすく、万一失敗しても医師免許があれば生活していけます。サラリーマンが会社を辞めて独立するより、はるかにリスクが少ないのです。ですからぜひ、何か新しいことにチャレンジをしていただきたいと思っています。
例えば私自身はビジネススクールに通いましたし、最近は少しずつMBAを取得する医師が増えてきています。MBAの取得を推奨しているわけではなく、医療の世界だけに留まっていないでほしいと思います。
自分自身で自分の生きていくプランを考え、これが必要だ、興味があると思える分野でチャレンジしていく。全体の医師のうち、たとえ数十人、数百人でも、何か新しいことに挑戦することは、世の中のイノベーションの原動力になり得ます。医学だけ、あるいは臨床医という道だけに注力する生き方も大切だと思いますが、そうではない道もたくさんあります。ぜひ何かに挑戦してください。大丈夫、たとえ転んでも生きていけますから。
(インタビュー・文/coFFee doctors編集部)※掲載日:2022年5月17日