新しいコンセプトの医学書『YouTubeでみる 身体診察』が8月に発売されました。高知県の若手医師と研修医からなる「コーチレジ」のメンバーが4年間かけて編集したもので、動画で手技を確認できるなど、さまざまな工夫が散りばめられています。画期的ともいえるこの書籍に込められた思いを、編集メンバーの石井洋介先生と鈴木裕介先生にお伺いしました。
◆先輩医師から後輩への置き土産
―なぜ身体診察の本を出版することになったのですか?
石井 『身体診察と基本手技』という本を書いた倉本秋先生から、その本の第2版を書いてほしいと声を掛けてもらったのがきっかけです。身体診察の本は、大家の先生が書いた決定版ともいえるようなものや圧倒的なシェアを誇る学生向けのものなど、既にたくさん存在しています。それ以上のものを作るのは正直難しいと思いましたが、強いて言えば、これまでにあった本はどれも真面目で難しい内容のものが多く、学生や研修医がもっと気楽に読めるものがあればいいなと思いました。
僕は初期臨床研修を高知で行いましたが、同期が少なかったこともあり、一生懸命勉強していても、自分が持っている知識は都会で研修している人たちよりも遅れてるんじゃないかっていう不安がありました。実際には素敵な先輩がいて指導してくれているのに、そう感じる瞬間があったんです。他のみんながどんなふうに診察をしているのか、「標準的な診察」というものがすごく気になっていました。また、へき地の診療所へ研修に行っていたこともあるんですけど、とりわけひとりぼっちで診療していると、自分の診療や治療方法に不安を覚えることが多くありました。
鈴木 臨床で自分がやっていることに適切なフィードバックが得られないってすごく不安なんです。初期研修中は先輩からのフィードバックがありますが、研修医が終わってすぐに十分な指導がない地域に行くのは、やっぱり怖いですよね。診療の場面では、教科書とかの文面だけからでは分からないこともありますから。「大丈夫だよ、君もすごい」っていうメッセージが伝わってこないと、なかなか不安はなくならないんです。
石井 だから、地方で勉強している学生たちが、僕らと同じ思いをしないで済むような本を作りたいと思いました。普段行っている診療でできるだけ標準的なものを、等身大に書きたいと思ったんです。しかも、机の上で開かなきゃいけない辞書のような本ではなくて、一人で当直している時に読んで、クスっと笑えるような本。先輩が隣でばか話をしているような本です。
僕は、真面目な医学書は読めなくて、薄い本とか、挿絵が入っている本とか、そういうものをよく読んでいました。同じような後輩たちのために、寝っころがりながら楽しく読んでもらえるような本にしたいと思ったんです。書き始めた時は、僕自身、高知で研修医をしていましたが、この話をいただいた時には高知を出て県外で勉強することに決めていたので、後輩たちに何か残していけるものを作りたいという思いもありました。
―YouTubeに着目されたのはなぜですか?
石井 DVDが付いている本ってよくありますけど、僕みたいな人間は、DVDを開けたことさえないんですよ。付いたままだと表紙が硬くて読みにくいから、仕方なくDVDを引き剥がす……みたいな(笑)。
一方でアメリカとかだと、病気の患者さんの動画なんかが結構YouTubeに落ちているんです。研修医時代の僕は、そういうものを見て勉強していました。この病気になるとこんなふうになっちゃうんだとか、すごく分かりやすかったんです。だから、YouTubeを使えばいいのにって、ずっと思っていましたね。
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◆この本を通して後輩に伝えていきたいこと
―研修医時代に新しい試みの本を執筆するのは、大変だったのではないですか?
石井 実際に大変でしたし、これでいいのかとすごく不安でした。もちろん、本なんて書いたこともなかったので……。論文や大家の身体診察本を調べたりもしましたが、あっちとこっちで違うことが書いてあったりして。でも、そもそも何で違うのかという疑問が湧いてきたんです。そこから結局、医療、特に身体診察には、絶対的な解というものは存在せず、偉い先生方も日夜いろいろと試しながら議論を重ねてやってきたのだろうという結論に落ち着きました。
もう一つ、不安を取り払う材料になったのは、ニコニコ学会βを立ち上げて『進化するアカデミア』という著作を書いた江渡さんから聞いたお話です。今の学会って、僕みたいなぺーぺーは勇気を振り絞らないと物を言える雰囲気ではないですよね。でも学会というのはもともと、1年目の若い研究者でも教授に向かって言いたいことをオフィシャルに言えるような場だったそうなんです。ニコニコ学会βが始まったのは、石を投げて波紋を呼んで、新しい知識やアイデアが生まれるようなオープンイノベーションの場を作るためだったという話を聞いて、勇気をもらいました。この本も「もっとこうした方がいい」とか、新しい意見をどんどん出してもらえるオープンイノベーションなものにできたらいいなと思うようになったんです。
鈴木 言いたいことを言って盛り上がるのってすごくいいことだと思うんですけど、ディテールが間違っているとか、俺のやり方が正しいとか、そういう論争はあまり建設的じゃないように思うんです。自分の正しさを証明するためではなく、「患者さんの利益につながる価値って何だ?」みたいな議論で盛り上がれたら最高ですよね。
石井 本の編集では、僕が高知から離れたことでコーチレジのメンバーと集まる時間が取れなくなり、みんなで作るのが難しくなったことも大変でした。それでも高知の後輩たちに対する思いを持つみんなと一緒に作りたかったので、4年間かけても高知でやり続けて良かったです。
―他にもこの本でこだわった点はありますか?
石井 僕らが後輩の研修医に言っているようなことを、そのまま本にしています。そういう言葉って、現場で脈々と受け継がれたりしているんですけど、形としては残されていなかったりするんです。
鈴木 「病棟で若い看護師さんだけに話しかけてはいけない」とか(笑)、よく後輩たちに話していたようなことがそのまま文字になっています。一方で、診察部分に関してはきちんと専門の先生方の意見を取り入れたので、自分たちが考えていたよりもだいぶ真面目な本になりました。渾身の力を注いだボケをいくつも削られた時は悲しい思いをしましたが、今思えばそれが正解だったと思います(笑)。
石井 真面目な中でも、今まであまりなかった例え方を使ったりはしています。肺音のイメージの仕方を空気ポンプで表現したりとか。まさに後輩に教えるような感じで書いているので、字だけだと読めないという人にも楽しんでもらえると思います。
鈴木 現場のことだけでなく、マクロの視点から医療を捉えて、本質的な問題解決に近づけるようなトピックを入れることにもこだわりました。コラムにある「地域包括ケアって何なの」とか、「トクヨウとロウケンの違い」などというのは全部、研修医のやることリストには入っていません。でも、この先僕らが40年間医師をやる中では絶対に必要になってくることです。そういうマクロの視点から医療を捉えるきっかけにしてもらえたらいいなって。
現場でどんなにいいことをしていても、マクロのこともある程度分かっていないと、それを国全体に広げていくのは難しいと思うんです。何か提言をしたいときにも、行政のお眼鏡にかなうためのコミュニケーションというか、共通言語が絶対に必要だと思うんですよ。
石井 コラムでは、Biomedicalな側面の医療だけではなく、Psychosocialな医療についても取り上げました。僕は研修医時代に、何回も肺炎を繰り返すおばあちゃんを担当したことがあり、その時はグラム染色をして最高の抗菌薬を選択することに全力投球していました。でも、本当の問題はもっと根本的なところに隠されていることを地域医療研修で知ったんです。そのおばあちゃんは、寒そうな家で暖房もつけずに暮らしていました。寝たきりでご飯もうまく食べられず、おじいちゃんが危なっかしく食事介助をして、誤嚥していたんです。低栄養に誤嚥、寒さなども重なって肺炎を起こしやすい環境にいる以上、どれだけ素晴らしい抗菌薬を投与しても、本質的な治療にはならないことが分かりました。このおばあちゃんに必要なものは、最高の抗菌薬の投与より社会的ケアの導入だったんですよね。
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◆地域にしか出せないバリューがある
―今後はどんなことをしていきたいですか?
石井 今回の出版にあたっては、一つの目標として、高知県の臨床研修をブランディングしたいという思いもありました。というのも、僕の同級生の中には「高知大学って底辺だよね」と高知での研修を避けて都会の病院に行く人たちもいて、すごく悲しい思いをしたからです。高知県は世界に先駆けて高齢化が進んでいる地域で、医療問題も山積みです。でも裏を返せば、新しいチャレンジをするのに最高の土壌だと、本気で思っています。実際にチャレンジしている姿を見せたかったこともあるし、高知を出た人たちにも胸を張って「高知って面白いんだよ!」って言ってもらえたらいいなって。
鈴木 高知大学は、少なくとも医学部としては、「優等生」って感じではないのかもしれないですけど、むしろそこが良いというか、逆に、そこでしか出せない価値っていうのもあると思うんです。実際に、大学の先輩が「自分たちで考えてまとめる能力は、君たちの方が都会の大学の学生よりずっと上だ」って言ってくれたことがありました。それに、超人じゃなくて凡人が頑張っているからこそ勇気づけられる人もいるわけじゃないですか。ドラゴンボールの悟空じゃなくて、ヤムチャが頑張っているからこそ、みたいな感じで(笑)。地方の大学を出た人が自分の大学を卑下するのではなくて、「俺もできるかも!」って、新しいバリューをつくり出すために立ち上がってくれたらうれしいですね。
石井 今回の出版では、そういうバリューをみんなでつくれたのが良かったと思います。本の写真は高知大学が提供してくれて、帯は後輩が書いてくれました。大御所から学生までを巻き込んで、まさに「オール高知」で作った本になっていると思います。高知だからこそ出せるバリューもあるんじゃないかって、その可能性をもっと広げて盛り上げていけたらいいなと思っています。
ちなみに、この本の印税は全部、高知県の研修環境向上のために使ってもらう予定です。こういった僕らの活動が、高知で研修した人たちの可能性を広げていくことになれば最高ですね。
(取材日 / 2015年8月21日、聞き手 / 左舘 梨江)