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山梨から東北へ 570kmの道のりを通い続ける支援活動[2]

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東日本大震災後、自治医大のOBによる支援活動の基礎を築いた古屋先生が次に取り組み始めたのは家や施設で過ごす高齢者の方々に対する支援活動でした。そこから現在に至るまでの活動をお伺いしました。

―震災後の気仙沼市にあった課題は何ですか。

気仙沼市は震災後、医療支援チームが一番多く入った地域だったので、2週間ほどで医療者の数も、避難所の救護所に入る医療支援チームの数も充足しました。しかし一方で、倒壊を免れた家や施設で過ごす高齢者の方々へのケアが、目も届かず人手も不足して不十分でした。

気仙沼市はもともと在宅医療が進んでいない地域で、人口約7万人の中、在宅医療を多く手がけてくれる医療機関は限られていました。そんな状況の中、震災の被害にあったことで寝たきりの方の電動ベッドやエアマットが止まり、褥瘡が多発してしまいました。また、病院に入院していた人が退院しようにも、在宅医療のリソースが足りないため退院できない状況もありました。

―その状況の中で、どのようなことをされたのですか?

そんな中、震災から2週間後に愛媛県松山市にあるたんぽぽクリニックの永井徳先生らのご尽力で「気仙沼巡回療養支援隊」という在宅型の医療支援チームの活動が開始されました。私が最初に活動していた自治医大学の支援チームもメンバーが次々と集まっていたので、私自身の次の活動として「気仙沼巡回療養支援隊」に参加し、患者さんのお宅に訪問するようになりました。

避難所の救護所活動は6月末くらいで大体終了していましたが、気仙沼巡回療養支援隊の活動はなかなか終わりませんでした。と言うのも、病院に入院しても退院させる場所がないので、次々と替わる支援隊のメンバーが代わる代わる継続して診ることになり、まるで主治医のように診察を続けていたのです。患者さんが震災前にかかられていた地域の先生のところへ徐々に患者さんを戻していくことで、10月にようやく活動休止の目途が立ちました。その頃、本吉病院に川島実先生が院長として着任されたこともあり、本吉病院に担当していた患者さんを移す流れで、私自身も本吉病院の非常勤医師として月2回、外来と訪問をすることになりました。

―現在はどのような課題が残っているのでしょうか。

現在、自分としては本吉病院での外来診療や一部訪問診療と、食支援の勉強会を盛り上げる活動の他に、仮設住宅や復興住宅でのボランティア活動も行っているのですが、仮設住宅には、「なかなか医師と話が噛み合わない」とか、「この科とこの科にかかっているけれども、バランスよく診てもらえない」などといった、全国のどこにでもあるような医療の問題に困っている方がたくさんいます。また、仮設住宅は山の方に建てられているので交通の便が悪いのですが、移動のためのサポートがありません。そのため病院に行くのも大変、買い物にも行きにくい、買い物支援があっても、どうすれば利用できるのかが分からない、などというさまざまな問題があります。そのような困りごとの相談に乗るための訪問活動を行っています。

―今後はどのように関わっていこうと考えていらっしゃいますか?

本吉病院は地域の病院として発展しています。食支援の活動をしているチームも、地域のリーダーとして頑張って活動していて、全国的にみてもトップランナーとして活躍しています。私も本吉病院の整形外科の分野を支えていきつつ、仮設住宅から復興住宅に移っていく皆の生活が徐々に落ち着いていく姿を、今後も見守っていきたいです。

山梨から東北へ 570kmの道のりを通い続ける支援活動[1]

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医師プロフィール

古屋 聡 在宅医療、整形外科

1987年自治医大卒。山梨県立中央病院で研修後、山梨県牧丘町立牧丘病院(現山梨市立牧丘病院)にて“ひとり整形外科医”として勤務。1992年より塩山市国保直営塩山診療所(現在は閉院)にて在宅医療に取り組み、2006年に山梨市立牧丘病院に再度赴任、2008年より現職。
東日本大震災後に現地での支援活動に取り組む中で、2011年3月25日に成立した在宅患者をサポートする医療支援チーム「気仙沼巡回療養支援隊」にて活動する。その中の特別活動として「気仙沼口腔ケア・摂食嚥下・コミュニケーションサポート(通称ふるふる隊)」をコーディネートし、内外の多職種で取り組み、その後、「気仙沼・南三陸『食べる』取り組み研究会」を地域の方々とともに立ち上げて活動している。

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