医師8年目の川田裕美先生。漠然とたくさんの人の健康を支える医師になりたいと思い描いていた川田先生は、初期研修修了後、医系技官になり、これこそ自分に合っていると感じていました。ところが、医系技官としてキャリアを積んでいこうと決めた矢先、株式会社メドレーに入社されました。医系技官を辞め、メドレーで実現したいこととは――?
◆たくさんの人の健康を支えたい
―学生時代、医師としてどのような診療科に進もうと考えていたのですか?
父が医師だったことから、医師という仕事や医学という学問に興味を持ちました。ただ、父が開業医でなかったことや、幸い身近な人が大きな病気をしなかったこともあり、振り返ってみると、自分の中に病気を治療するイメージがあまりありませんでした。
一方医学部には、「〇〇科に進んでこんな人たちを治療したい」と高い志を持って入学してきた同級生が一定数いました。そのため、医学に興味がないわけではないですし一生懸命勉強していましたが、そのような同級生には少し気後れする部分がありました。
そして、病気を治療する医師像が思い描けていなかったので、生死に直接関わることは少ないですが、より幸せに快適に暮らせるような手助けしたいと思い、将来は形成外科に進もうと考え、住友病院で初期研修を受けました。
―医系技官になろうと思ったのはなぜですか?
もともと医系技官のことは、学生の頃から知っていました。大学OBで医系技官だった方が、仕事紹介のために大学を訪ねてくる機会があったのです。臨床と研究以外に医師として仕事ができる環境があることを初めて知り、仕事として面白そうだなと興味を持っていました。しかしその当時は、自分がなるとは全く思っていませんでした。
研修医2年目の時に、改めて初期研修後の進路を考えた時、当時ひっかかっていたのは、病院の中にいたら病気の人しかこないということ。「大勢の人の健康状態を維持するような仕事がしたいのなら、病院の外に出るべきなのではないか」との気持ちが少しずつ膨らんできたのです。そして、医系技官の仕事を思い出しました。
ただ、医師として何もできない自分を2年間かけてゼロから育ててもらったのに、臨床医としてのキャリアを一旦リセットすることに対する申し訳なさがありました。そこで、住友病院の先生にも相談したところ、「数年やってみて、やっぱり臨床医のほうが楽しいと思ったら戻ってくればいいよ」と言ってくださって――その一言で、「2年間やってみて、違うと思ったらまた住友病院に戻ろう」と考え、まずは医系技官に挑戦してみようと決意しました。
◆医系技官からメドレーへ
―医系技官としては、どのような仕事に携わったのですか?
厚生労働省に3年弱在籍し、2つの仕事を経験しました。1つが難病対策課という、いわゆる希少疾患の対策全般を考える部署、そして2つ目が結核感染症課という結核を始めとした感染症の対策を講じる部署です。
難病対策課は、希少疾患や治療法の研究、診療可能な医療機関の整備や、医療費を支援する仕組みづくりなど全般的に関わります。ちょうど私が入省した年に、難病法が成立しました。通常、国会で法案審議がなされて可決後、施行までには1年程の期間があるのですが、難病法に関しては、入省直後の5月に国会で審議が行われ可決、半年後には施行されるスピーディに物事が動くタイミングでの配属でした。
医療費助成の対象となる疾患選択にあたって、実際に診療したことのある疾患から、聞いたこともない疾患まで、研究されている先生にお話を伺い指導してもらいながら、疾患の基礎資料を作っていくのが最初の仕事でした。
その後異動した結核感染症課は、さまざまな感染症が国内で流行ったり、海外から持ち込まれた際の対応をしたりするのが主な仕事でした。私が在籍していた時には、リオデジャネイロオリンピックが開催される年で、ジカ熱が海外で流行っていました。医療機関は、結核など指定された感染症を発症した患者さんがいた場合に報告義務がありますが、ジカ熱のように流行した例がない新たな感染症の場合、報告義務が定められていません。
そのため、どのような特性があるのかなどを踏まえて、報告の仕組みを定めたり、どの医療機関で検査や治療を行うのかといった医療の提供体制を検討したりしました。
―区切りとしていた2年間を超えて医系技官として働かれていた川田先生。それだけ医系技官にやりがいがあったということですか?
そうですね。2年間経った時点で、医系技官としての仕事を振り返ってみると、法律やガイドラインを作成して全国で運用することで、多くの国民、時には全国民に関われるその規模感に、大きなやりがいを感じていました。そして、漠然と思い描いていた、一対一で治療し治すのではなく、集団を対象に健康を守る仕事ができて、純粋に面白かったですし、自分には合っていると思いました。そのため、このまま医系技官を続けていこうと考えたのです。
―ところが2017年1月、株式会社メドレーに入社されています。
メドレー代表取締役医師の豊田に再会したことが大きな転機となりました。豊田がマッキンゼーに勤めていた時期に一度名刺交換をしたことがありました。そして豊田がメドレーで新しいサービスを考える中で、厚労省の職員としてどう考えるかの感触を聞きたいと相談があったのです。
当時、若手医師の中では、豊田がメドレーに入社したことがちょっとした話題になっていて、私としてもどのようなことをしているのか興味があり、直接会って話すことになりました。すると、健康保険組合と契約して、組合員に対し遠隔診療で禁煙外来を受診してもらう機会を提供することで、それまで禁煙治療に腰が重かった人たちにも治療を勧めているという話を聞きました。具体的なサービスとして実際に予防的なアプローチが始まっていることを知って、率直に面白そうだと思いました。そのことを伝えると、メドレーで一緒にやりませんかと誘われたのです。
ちょうど厚労省にしばらくいようと決めたばかりだったので、どうするかは非常に悩みました。厚労省には必ず異動があり、時には自分の興味関心と合う部署やタイミングにいられないこともあります。一方、メドレーは今の自分が興味のある分野で具体的なサービスを提供している――。この2つを比較した時に、自分が素直に面白いと思える方を選択してみよう!と思い、メドレーへ入社を決めました。
◆行政・企業・アカデミアの橋渡し役
―現在、メドレーではどのような仕事をされているのですか。
現在は育児休業中なのですが、入社後から主に遠隔診療に関するさまざまな業務を行っています。一番大きな役割は、遠隔診療に関して厚労省から新しいガイドラインやルールが出された際、その情報をいち早く入手し、それらにきちんと則った形のサービスに整備することです。
正直、行政が出す通知や資料は決して読みやすくはないですし、どこに、どのタイミングで公開されるのかが分かりにくいです。医系技官として直接遠隔診療に携わっていたわけではありませんが、厚労省の中でどのような順番で検討され、通知などが出されるのかという一定の型は分かるので、前職の経験を活かし、情報を入手し、内容をかみくだき、社内でスムーズにサービスの整備ができるようにしています。
加えて、大学や国立病院と連携し、実際にサービスのユースケースを検証することにも携わっています。1企業でエビデンスを積み上げていくのは難しいので、様々な機関の力を借りて、データを蓄積しています。
―川田先生としては、メドレーに関わることでどのようなことを実現していきたいと考えているのですか?
企業や行政機関、アカデミアは、それぞれ役割は違いますが、新しい考えや技術を取り入れ、医療の発展を目指しています。ところが、その3つがバラバラに動いたり、時には敵対したりすることもあります。そうではなく、連携することで、より加速度的にさまざまなことを動かせると思っています。
現在は、行政でルールが作られている最中の遠隔医療に企業の人間として携わり、行政とアカデミアをうまくつないで遠隔診療の普及に貢献していきたいと考えています。
そして、ゆくゆくは遠隔診療以外にも、さまざまな分野で同様の動きができればと思っています。私自身は、今は1企業にいますが、どこの立場でもよくて、私のこれまでの経験を必要としてくれているところで、行政、企業、アカデミアをつなげるような働きができたらと思います。
(インタビュー・文/北森 悦)