医師7年目の渡辺大先生は、故郷・香川県で臨床医の傍らゲストハウスやゲームクリエイターが集まるコミュニティの運営をしています。一見すると全く違うジャンルの活動に見えますが、渡辺先生は「どちらの活動もつながっているし、医師として果たすべき責務にもつながる」と語ります。どのような思いで始め、思い描いているゴールはどこにあるのか――? じっくり語っていただきました。
◆“医師”が地域に出ると「病院の領域を広げているだけ」に感じた
―現在、取り組まれていることについて教えてください。
精神科臨床医として勤務する傍ら、副業として香川県高松市内でゲストハウス「燈屋」を運営しています。
また、県内の学生・社会人が参加するゲームクリエイターたちのコミュニティ「讃岐GameN」も運営しています。「ゲームをつくりたい」と思っている初心者から上級者まで、どんなレベルの人でも参加可能で、ゆるく集まりそれぞれのゲーム制作を進めたり、勉強会や交流会を開いたりしています。
目的は「どのような境遇でも人は創る力に満ち、夢は叶えられる」社会を実現すること。讃岐GameNは始めてから6年が経ち、今では50人くらいが活動に参加してくれていますね。燈屋でから生まれた人間関係をきっかけに高松の商店街と連携し、讃岐GameN主催でゲームのお祭り「SANUKI X GAME」を開催できるようにもなりました。
―燈屋はどのような経緯から始めたのですか?
私が医学生だった2010年代半ば頃から、地域に出ていこうとする医師が増えてきました。私も医療・健康をテーマにした座談会を企画・運営していましたが、運営してみるとみんなが参加するわけではなく、むしろ絶対に来ない人もいることが見えてきました。
「医師の立場のまま地域に出ると、病院の領域が広がるだけで、出会える人は病院の中とあまり変わらないのではないだろうか?」と感じるように。医療や健康といった「匂い」をまとった瞬間に医療の外側に行けない感覚があり、私の関心は、どのようにしたら“来ない”人たちとも話ができるのか、ということに移っていったんです。
ちょうどその頃、「同じことを繰り返しながら違う結果を望むことは愚かなこと」との言葉に出会い、「手段を変えれば何か結果は変わるのか!あんまり難しく考えなくてもいいのかもしれない」と、素直に感動したんです。そこから、とりあえず医師である自分は「健康とはなんだろう?よい街・暮らしとはなんだろう?」と考え続けるものの、それを表に出さないことだけ決め、古民家を購入し、燈屋という「実験場」を構えました。
燈屋を始めてからは、観察と実践の繰り返しですね。「街は、テーマと肩書きばっかりやな」と感じたので「テーマも肩書きもない飲み会」を毎週開いてみたり、「街は、お金のやりとりばっかりやな」と感じ、たまたま近所にあった素敵な本屋さんと提携して「本で泊まれる本泊」という企画を始めてみたり――。患者さんにお願いして、当然患者だと言わずに燈屋の活動に混ざってもらったりもしました。
逆張りのようなことを6年間続けているうちに、燈屋は新しい人間関係のハブになっていきました。その中で、生涯のパートナーと出会う人がいたり、社会復帰する人がいたり。街の中にゲームのお祭り「SANUKI X GAME」を生むことができたのは、ある意味1つの集大成だと思っています。
◆趣味発だが、医師の責務にもつながっている「讃岐GameN」
―讃岐GameNはなぜ始めたのですか?
もともと中学時代にはゲームクリエイターになりたかったことが最初のきっかけです。個人的な趣味が出発点だったものの、「ゲームもいずれ自分が本職で果たすべき責務につながっていくのではないだろうか」とは、何となく思い描いていました。当時、すでにゲーム開発の業界ではメタバースの話題も出始めていましたし、AR技術についても話題になっていました。こういった話題を目にする中で、将来的にゲーム技術がインフラになっていくのではないかと感じていたんです。
ペシャワール会現地代表を務められていた故・中村哲先生は、中東に医療活動で入り、結果的には井戸(インフラ)の掘削事業に尽力されました。もちろん今の日本に中東ほどのインフラ格差はありませんが「あらゆる格差の中で、インフラ格差の影響は大きそうだ。いかにインフラへ簡単にアクセスできるかは、その土地の生活の質向上だけでなく、幸福感の向上につながるのではないか。では、日本にとっての井戸とはなんだろう?」と、漠然と考えていました。
そしてメタバースやAR技術に囲まれた生活が現実味を帯び始める中で、そのような自分の生活をとり囲み、生活に欠かせないものを自由にコントロールできるかどうかが、日本にとってのインフラなのでは、と考えるように。加えてその技術者を香川県できちんと育てることが、将来の香川県の人たちの幸福感や自己効力感といったものにつながるのではないか、と思って讃岐GameNを始めました。
空想で補っている部分も多いですが、讃岐GameNと燈屋、そして医師業が全てがつながるようには考え続けてきましたし、それが良かったと思っています。医療関係者が燈屋の飲み会に来て、燈屋の常連さんがゲーム制作に乗り出し、ゲームクリエイターが病院に入っていってゲーム制作し、全ての活動が年に一度のゲームのお祭りでつながる。
このようなものを一緒に育む感覚は、関わってくれる人たちの幸福感や自己効力感につながっているのではと思います。
◆旅立つ若者がいつでも帰ってこられるコミュニティでありたい
―医師の傍ら、燈屋や讃岐GameNを続ける原動力はどこにあるのでしょうか?
話が少し遡りますが、20代前半にインドを旅したことがありました。その時、インドのタクシー運転手に「インドってどんな国?」と聞くと、私が出会ったタクシー運転手全員が口を揃えて「インド大嫌い」と言っていたんです。それを聞く度に少し悲しい気持ちになりました。そして「人生の大きなパーツである生れ育った場所をポジティブな気持ちで扱えない状態は、あまり幸せなことではないのでは」との問題意識が生まれました。
また、讃岐GameNの活動を始めてから2年目頃でしょうか。都内のゲーム関係のカンファレンスで「地元に、頑張ってる人なんていないじゃないですか」と真顔でいう若者に出会いました。彼は私が絶対に同意してくれるものと確信している様子だったのが印象的でした。彼と出会ってから「地元の意欲のある若い子でも参加したいと思えるようなコミュニティにしよう」と強く思い、地方ゲームコミュニティの役割、都心部との差別化について必死で考え、今の方向に成長できたのかもしれません。
―今後の展望はどのように考えていますか?
讃岐GameNの活動をしていて、「上京した子がいつの間にか向こうで自殺していてね……」と話す学校の先生にも出会いました。地元を離れて時間が経つと、それまで地元で紡がれていた関係性がなんとなく疎遠になり、途切れてしまうことがありますよね。それはとてももったいない。しんどくなった時、拠り所が多いに越したことはありません。香川から旅立つ全ての若者が、いつでも帰ってこられると思える地元コミュニティでありたい。そのために、若者の熱量に見合うチャレンジを続けようと考えています。
ありがたいことに現在、讃岐GameNには香川を離れた子たちも多くメンバーとして参加していて、連絡や相談が来ることがあります。このように地元に相談できる場があることは、追い詰められてしまった時の処方箋になりえると思うのです。趣味を出発点に始めたゲームクリエイターのコミュニティですが、ふとした瞬間に相談できるという点は燈屋の活動にもつながっていますし、やはり本職にもつながっていると考えています。
また、ここまで話してきたような課題は、大なり小なり他の地方でも抱えているのではないかと想像しています。香川県という1つの地方でできたことが、どこかで同様の問題意識を持っている方の役に立つのなら、とても嬉しいですね。
―燈屋や讃岐GameNを通した活動の最終的なゴールはどこになるのでしょうか?
ゲームのお祭り「SANUKI X GAME」を安定して開催できる下地を整えるといった直近の目標はありますが、遠くのゴールや目標は具体的に考えないようにしています。
私としては讃岐GameNで掲げている「どのような境遇でも人は創る力に満ち、夢は叶えられる」社会を作ることに、その時その時、きちんと近づけているかが一番重要で、そこから離れていくようなら解散し、次に生まれてくるはずの活動のために空白を作ることの方が街にとって大切だと思っています。解散の余地を残していることは、会社組織とは異なるコミュニティの大切な要件だと思っています。
「SANUKI X GAME」は2021年から毎年開催していて、2024年11月17日に4回目を開催します。今年は「ゲーム」を「疑似体験」と読み替えることで、ゲームクリエイターに限らず街の人たちもさまざまな体験を持ち寄れるようにしました。初めての試みですが、60作以上の“ゲーム的な体験”が集まる予定です。少しずつ讃岐GameNのOB・OG作品が増えているのもありがたいことです。
「SANUKI X GAME」では、「ゲームファンのためのイベント」ではなく「街のみんなのためのお祭り」を創っていくために、何を大切にしていかねばならないのか探り続けています。今年は疑似体験として、商店街で「メディカルラリーっぽいもの」を開催予定です。「暮らしのど真ん中で開催するのだから、AEDは実際に商店街の中に設置してあるAEDを探して使おう」とのアイディアが出て、商店街の人と打ち合わせを進めていたのですが、皆が思っていたところにAEDが設置されていないことが発覚して……。商店街の人が設置に向けてすぐに動いてくれて、お祭りを通して街の防災面に少しお役に立てたようで、嬉しかったですね。このような、ささやかなことを積み重ねていきたいです。
―渡辺先生自身の今後のキャリアプランはどのように考えていますか?
とても難しい質問ですね。どんなに少なく見積もっても、あと2年は「街のお祭りづくり」に奔走することになりそうです。それが落ち着いても、たぶん街の中にはいるだろうと思います。ただ、どの活動もメンバーが集まり、活動を引き継いでくれたり自発的に動いてくれたりするようになってきているので、私自身の役割は変わっていくでしょう。それでも「きっと取り組んだ方が良くて、どうも誰もやりそうにないけど自分にはできそうなこと」あたりにやりがいを見つけ、走り込んでいくんだと思います。
今、初期研修でお世話になった病院からアプリ制作の依頼をいただいたり、病院の中でゲーム制作イベントを実施し、病院関係者からも意見をいただいたりしています。このあたりが、2年後ぐらいにまた街とつながり、その接点に自分がいるのかもしれません。
―最後にキャリアに悩む後輩へのアドバイスをいただけますか?
「腹をくくって生きる場所を決める。ないものは自分で作れ」でしょうか。私も大学5年生頃までは「初期研修だけ全国のどこかで受ける」と考えていたのですが、選択肢が無数にあって全く答えが出ませんでした。「香川で生きる」と決めた瞬間に、行きたい病院候補はたったの2つになりました。あの解放された感覚は忘れられませんね。
そこでやる。ないものは作る。先駆者がいないなら自分が第一人者になる。意外と何とかなるので、迷いながらも進んでください。ですが、”古民家購入”前には、一度きちんと立ち止まった方が無難です(笑)それでは、いつか燈屋にお越しください。お待ちしております。
(インタビュー・文/coFFeedoctors編集部)※掲載日:2024年9月3日