初期研修医時代は救急医になることを考えていた氏川智皓先生。しかし、後期研修では家庭医療に進み、国境なき医師団に参加。現在は都市デザインを学ぶために、英国の大学院への留学準備をしています。なぜ、このようなキャリアプランを考えるに至ったのでしょうか? お話を伺いました。
◆医療領域だけでは健康問題を解決できない
-現在の取り組みについて教えてください。
2019年5月から、河北ファミリークリニック南阿佐谷で非常勤の家庭医として週2日、訪問診療と外来診療を担当しています。また、初期研修医として働いた湘南鎌倉総合病院で救急医療に月1回従事しています。
実は2020年9月から、ロンドンの大学院(London School of Economics and Political Science)の都市デザイン修士課程に進学する予定です。そのため昨年5月からは語学学校に通いながら、国内にある都市デザイン関連の研究室の勉強会に参加して留学準備をしています。
―なぜ都市デザインを学ぼうと思われたのですか?
これまで携わってきた救急医療では命を救うことを、家庭医療ではその手前の予防医療を実践してきました。しかし、家庭医として地域住民の健康問題に向き合っている中で、医療だけでは解決できない問題が多く存在しており、特に生活環境が、人々の健康に大きく影響していると考えるようになってきました。
きっかけは、専攻医時代を過ごした亀田ファミリークリニック館山の同僚や知人と、アウトリーチグループ「いと」やシェアオフィス「南極スペース」を作ったことです。
アウトリーチグループ「いと」では、医療知識の啓蒙活動を中心に地域で活動をしていました。クリニックの同僚と立ち上げ、地元の音楽フェスでのHIV予防キャンペーンや児童養護施設でのレクチャーなど、地域貢献につながる活動を行ってきました。
より地域に密着した活動を行うための活動拠点や、移住者と地元住民の交流できる場を作りたいと模索していたところから、知人と古民家をリノベーションしたシェアオフィス「南極スペース」を立ち上げることに。こうした開かれた場を作ったことで、地元の方との交流が格段に増えていきました。
これらの活動を通して、例えば、都市が自動車中心に整備されているために、運動が大事と分かっていても近くに安全に運動できる空間がない事や、自転車や徒歩で安全に移動することが難しいと感じている人がいること、健康問題以前に車がなくて日常生活に困っている人がいることなど、予防医学の啓蒙活動では解決できない生活環境の課題が見えるようになってきたのです。そうした中で、誰もがアクセスできる公共空間を通して人々の生活を改善しようとする「都市デザイン」という分野に興味を抱くようになりました。
◆救急医から家庭医、そして都市デザインの分野に
―ところで、なぜ医師を志したのでしょうか?
正直に言うと、死ぬのが怖かったからです。物心ついた頃から自分や世界の存在と認識への疑問があり、自分が認識できない死後の世界がやがて訪れる事を受け入れられませんでした。自分や家族の命の危機を他人任せにはしたくなかったので、自ら医師になろうと思ったんです。また父親が鍼灸師で風邪をひいた時には診てくれたりしていたので、「人を癒す」ことは原体験としてあったように思います。
―最初は、救急科を目指されたようですね。
もともと怖かった命の危機から救う術として一番重要なのは救急医学のスキルだと考えて救急医を目指していました。高校生の時に、日本で初めて開設された大阪大学医学部附属病院 特殊救急部のドキュメンタリー番組を観たのがきっかけで、大阪大学を目指すことにしました。
初期研修は、学生時代に参加していたACLSコースで憧れの存在だった先生方がいる湘南鎌倉総合病院に入職。しかし救急の現場は想像以上に忙しかったです。また、治療して退院したと思った患者さんがまた搬送されてきたり、一般病院で対応できる患者さんでも、かかりつけ医が不在なために救急で対応を余儀なくされたり――本来、救急医療を必要とする患者さんが利用できないくらい不要不急の受診が数多くあり、頑張って対応しても埒が明かない状態が続いていました。
これを改善するには患者さんへの啓蒙が必要ですが、救急の現場で行うには限りがある。そのような状況から、次第に患者教育や予防医療の重要性を感じるようになっていきました。そこで後期研修では、患者さん一人ひとりの家庭や生活に深く、継続的に関わっていく家庭医療を学ぶべく、亀田ファミリークリニック館山に入職しました。
―その後、国境なき医師団(MSF)にも行かれています。
自分と違う文化や考え方に興味があって、学生時代にもバックパッカーで、さまざまな国を訪れていました。国境なき医師団(MSF)に参加したのも、異文化への好奇心が理由の1つです。
また、学生や専攻医時代に途上国で過ごした中で、家庭医療の技術が地域医療でも国際医療でも活かされると感じ、いつか世界に貢献したい、と漠然と考えていました。そんな中、幸運にもMSF のミッションに参加している上司と出会い、私の挑戦を後押ししてくださった事もあり、今後大学院に進学して臨床を離れるかもしれないので、MSFに行くなら今しかないという思いで決断しました。
MSFでは、南スーダン南西部の西エクアトリア州・ムンドゥリのプロジェクトに参加しました。医師は私ひとりだけで、看護師や助産師など5〜6人の多国籍スタッフと、数十人の現地スタッフと連携して、中心部にある医療施設に、重症患者を受け入れる救急治療室を作ることになりました。
治療をするにしても選択肢がほとんどないですし、価値観や文化も違います。私たち医師から見ればあまり望ましくないことも、土着文化として根付いています。さまざまな制約を考慮した上で、どう落とし所を見つけていくかには苦心しましたね。その経験から、日本でも患者さんのバックボーンを理解する視点がより広がったと思います。
一方で、道路が整備されていないために多発する交通事故や、医療機関への交通手段が無いために手遅れになり救えない命に数多く直面しました。生活環境が健康に及ぼす影響の大きさを痛感し、その改善に取り組もうと改めて決心しました。
◆生まれ育った街のまちづくりに関わりたい
―都市デザインを学ぶために、イギリスの大学院を選ばれた理由は何ですか?
当初は医師として家庭医療に従事しながら、国内の社会人大学院に通学しようと考えていました。しかし、都市デザイン業界の方々から話を聞く中で、海外の大学院の方が分野横断的な雰囲気で、さまざまなバックグラウンドの学生が集まっているという話だったので、海外留学を視野に検討するようになりました。
イギリスの大学院を選んだのは、同じ島国で、スケール感や社会システムなどが日本に近かったからです。アメリカも考えましたが、GREという学力試験のハードルが高く、開拓から始まる歴史的背景やスケールも日本とは違いすぎました。また、イギリスの大学院の卒業生からも話を聞くことができたのも、後押しになりました。
やはり「医師」という肩書で活動する限り、医療を主軸とした視点に縛られてしまいます。また、医師としてのキャリアの延長線上で公共空間の計画に関われるようになるまでは時間も要するので、医師として勤務の傍ら活動するには限界があります。医療の背景にある人々の生活環境に幅広く意見を言える立場になるには、都市デザイン領域の肩書を持つことが近道と考えて、都市デザイン科の学位取得を目指すことにしました。
―今後の展望をお聞かせください。
大学院を卒業した後は、国連関係で働きたいと思っています。都市化と居住の問題に取り組む「UN-HABITAT 国連人間居住計画」でキャリアを積み、将来的には、自分が生まれ育った広島のまちづくりに関わりたいと思っています。
バックパッカーとして行った南米でも、医師として働いた南スーダンでも、ヒロシマは、子どもからお年寄りまで知っている地名です。でも、ふたことめに出るのは原爆の話。それはすごく悲しいなと思っています。もちろん原爆のことを風化させないことはとても大事なのですが、もう一歩進めて「住みやすい街」として、多くの人に広めていきたい。そうすれば、本当の意味での「平和の街」として、今以上に普遍的なメッセージを世の中に発信していくことができるはずです。そうした、世界のヒロシマだからこそできる事に貢献していきたいと思っています。
(インタビュー・coFFeedoctors編集部/文・西谷 忠和)※掲載日:2020年8月4日