沖縄県で救命救急科、福岡県では小児科、そして長崎大学で感染症を学び、内科医として地元・岩手県で地域医療に従事した後、岩手県保健福祉部医療政策室に入職した高橋宗康先生。2018年8月から2年間はハーバード大学で公衆衛生の研究にも取り組みました。一見つながりのないキャリアに見えますが、根底には地元・岩手県の医療を良くしたいという強い想いがありました。
◆毎年50名の奨学金養成医師のキャリア形成を支援する
―現在の取り組みを教えてください。
2020年9月から岩手県保健福祉部医療政策室にて行政職員として、県内の医師偏在対策に取り組んでいます。岩手県は他県に比べて医師が非常に少ないので、2008年から医学生の奨学金制度を拡大。大別すると3種類の奨学金があり、毎年1学年50名の募集枠を設けています。この制度を利用した奨学生は、医師として県内の公的病院などに一定期間勤務すれば、奨学金の返済が免除になります。
私の担当業務は、奨学金養成医師と呼ばれることになる医学生たちが、義務履行を終えるまでのキャリアをサポートすることです。
具体的には、地域医療への理解を深めていただく場や機会を設けたり、先輩医師や奨学生同士の交流を図れる「サマーセミナー」などの企画・実行を行ったり、義務履行とキャリア形成が同時に進む仕組みやキャリアプランを作ったりしています。
私自身も「奨学金制度」を利用して医師になりました。実は、以前の奨学金制度では、初期研修修了まで、他の奨学生や先輩医師との接点がほとんどありませんでした。そのため奨学生になった時の「将来は岩手で地域医療を頑張るぞ!」という高いモチベーションが、年数を重ねていくにつれて下がってしまう傾向がありました。そんなとき、県内で頑張っている奨学生の近況が分かったり、岩手県内で活躍する先輩医師と交流する場があれば、他県の医学部で学んでいる奨学生たちも「岩手に帰って働こう」という気持ちが自然と湧いてきます。
しかも、1学年50名居る同期(仲間)や、先輩の奨学金養成医師は、家庭環境などバックグラウンドが似ている人も多く、サマーセミナーを通じて、強い絆が生まれることが少なくありません。
実は、こうした取り組みに関わるようになったのは、東日本大震災後の2012年、研修先の福岡県から岩手県へ戻ってきて、最初に勤務した岩手県立高田病院にいた頃からです。私が今在籍している医療政策室の当時の担当者に「医学生や研修生時代から、同期や先輩との絆が持てるサマーセミナーを導入してみませんか?」と話したところ、「ぜひやりましょうよ」と賛同いただいたのが発端です。今は自分自身が行政側の担当者となって続けています。
その他の取り組みとしては、岩手医科大学 医学教育学講座と長崎大学 熱帯医学研究所 国際保健学に籍を置き、公衆衛生の研究にも従事しています。2018年から2年間は、ハーバード大学の公衆衛生大学院で「東日本大震災での家屋被害の有無による、子どもの受ける長期ストレスについて」の研究を行いました。
―今の仕事に取り組み始めて、課題に感じることはありますか?
行政についていえば、医療政策室の職員は上司を入れて4名で、洗練されたメンバーです。しかし、慢性的に人手が不足しており、医療現場視点の助言や提案が、まだまだできていないと感じています。もっと臨床の現場で働く医療関係者や患者さんの声に耳を傾け、政策につなげていく必要があると思います。
研究については、行政の仕事と同じくらいの重要であると考えています。何か新しいことを始めるときには、自分たちの想いや直感も大切ですが、科学的データやエビデンスをもとに議論し、決めていかなければなりません。政策の立案をしていく行政が調査データなどを持っておく必要があり、そのためにも公衆衛生の研究には、さらに力を入れていきたいと考えています。
◆多様な地域で研鑽を積み、辿り着いた行政の道
―ところで、なぜ医師を志したのですか?
医師になろうと決意したのは、東京の予備校に通っていた時、アフガニスタンの復興に尽力されていた故・中村哲先生の講演を聞いたのがきっかけです。人の命を救うために用水路の建設にも携わり、医師の枠を超えた中村先生の活動に胸を打たれました。そして自分も発展途上国の医療支援を行いたいと思い、医師を目指すことを決めました。
私は岩手県出身で、地元の岩手医科大学へ進学。卒業1年前に新医師臨床研修制度が始まり、自由に研修先を選べるようになったので、さまざまな病院を見学しました。その中で自分の学びたい環境に一番近かったのが、沖縄県立中部病院でした。発展途上国に行くと、1人でさまざまな症例を診なければなりません。その疑似体験ができると考えたのです。
実際、研修医1年目から最前線の治療に携わり、2年目になると多くの患者さんを受け持ちながら、さまざまな診療科を経験し研鑽を重ねることができました。初期研修修了後に救命救急科を選んだのも、何でも診られる医師になりたいと思ったから。沖縄の病院には6年間在籍しましたが、非常に多様な症例を経験できました。
―その後、福岡子ども病院小児科後期研修に進まれたのはなぜですか?
救急科で広く浅く診るようになって、自分に武器(専門)がないと思い始めたからです。そこで「自分に何ができるのだろう?」と模索し、興味と得意な分野から辿り着いたのが小児の循環器でした。福岡子ども病院の循環器には著名な医師もいたので、ここでじっくり専門知識や手技を身に付けようと思い、研修医として入職しました。
―しかし1年で岩手県立高田病院へ赴任されています。
福岡子ども病院へ入局する直前に東日本大震災が発生。これをきっかけに2012年9月、岩手県に戻ることにしたのです。
もともと奨学金養成医師で、いずれは岩手県の病院で働く必要がありました。また、福岡子ども病院在籍中も、震災3カ月後から高田病院に派遣され、仮設診療所で地元の患者さんの診察に従事していたんです。
医師を目指した当初は、発展途上国の医療支援がしたいと思っていました。ところが東日本大震災を経験し、地元・岩手県に貢献したいと、自分の考えが大きく変わりました。
―岩手県に戻ってからは、研究にも取り組んでいらっしゃいますよね。
実は発展途上国の医療問題を学びたいと思い、福岡子ども病院入職と同時に、長崎大学で国際保健学や感染症などの研究に取り組み始めていました。しかし、岩手県で震災後の過酷な現状を目の当たりにして、地元の健康問題をテーマに研究したいと思うようになりました。
それで高田病院へ入職後、長崎大学の先生方の指導を受けながら博士課程を修了。研究テーマを変更し、ハーバード大学の公衆衛生大学院のリサーチフェローも経験させていただきました。
高田病院に赴任してからは冒頭の話に戻りますが、臨床・研究と並行して奨学金養成医師向けのセミナーを企画・開催し、キャリア支援も行っていました。その取り組みが評価され、「行政員の仕事をやってみないか」とお声がけいただき、今に至ります。
◆学び得た価値やネットワークを岩手県に還元
―今後の展望はどのように思い描いていますか?
これまで、高田病院のみなさんや地域の方々に育ててもらったので、恩返ししていきたいと思っています。そのためには、岩手県の医療を牽引していくような役割を果たしていきたいと考えています。
私は沖縄県からアメリカまでさまざまな環境に身を置いてきました。それぞれの土地で学び得た価値やネットワークを岩手県で活かしていく。そうすることで岩手県の医療を牽引していきたいですね。
成功した事例の1つが、沖縄県立中部病院感染症内科の医師を招いて行った若手医師の研修教育です。岩手県内には感染症内科が少なく、この研修で感染症抗生剤の使い方を始めて学んだ医師も大勢います。感染症の研究教育は、震災後から約10年続いています。このように沖縄県との橋渡し役を担ったことで、岩手県の医師から感謝してもらえています。自分の価値を岩手県に還元でき、私としても嬉しいですね。
ー最後に若い医師へのメッセージをお願いします。
「早く専門医を取りたい」「若いうちに数多くの症例を経験したい」など、若い医師の中には、焦ってキャリアを積もうとしている人が多いように思えます。早く経験を積み、さまざまな知識や手技を身に付けたいと考えるのは、医師としては当然だと思います。しかし、医師のキャリアは競争ではありません。目標を立ててやっていけば、必ずそのゴールに近づきます。ですから慌らず、じっくり取り組んでほしいと思います。
地域医療を経験することも、医師としてキャリアを積んでいく上で、決して無駄にはなりません。患者1人ひとりと向き合い、患者さんの話に耳を傾け、その生活を思い描きながら、診療をする。それを念頭に置いて診療に取り組んでいくことは、必ず今後の医師キャリアで活きていきます。地域医療に従事してから専門医を取ったり、研究に打ち込んだりしても遅くはありません。
私自身、高田病院で臨床経験を積んでから今の研究テーマに本格的に取り組み始めたので、回り道してきました。しかし、患者さん自身と向き合う臨床現場での経験は、現場を離れた今でも非常に役立っています。若い時期は、目の前の臨床にじっくり取り組み、その間に、自分が何をやりたいのか考え、自分に何ができるのか情報を集めて、次のステージに羽ばたいてほしいと思います。
(インタビュー・文/coFFeedoctors編集部)※掲載日:2021年9月14日