救急医として災害医療に携わり、国境なき医師団で活躍してきた中山恵美子先生。国境なき医師団へ何度も参加しながら、その時々の変化に伴い柔軟な働き方をしてきています。「今は国際保健にあまりこだわっていない。その時々のニーズに答えられる自分でありたい」と話す中山先生に、これまでのキャリアや現在の思いをじっくり伺いました。
◆知ってしまったからには、見て見ぬ振りはできない
―初めに、災害医療に取り組むことになった経緯を教えてください。
亀田総合病院の救急救命センターで後期研修を受けているときに外傷に魅力を感じ、そこから災害医療、さらには国境なき医師団(MSF)に興味を持つようになりました。
亀田総合病院では新たに災害専門の部署を作り、災害時の避難経路や院内のインフラをどう把握するか、病院としての機能をどう維持するのか、その時院内にいる人たちをどうやって守るのかに重きを置いてシステムの調整をしていました。システム作りで特に話をしたのは事務部の方々です。病院はバックグラウンドで頑張ってくれている事務の方々なしでは成り立ちません。私の年齢が若かったこともあり、医師として尊重してくださりながらも率直な意見を言ってくれて、いい関係を作ることができました。
発災時のシステムづくりに取り組んだのは卒後4年目。同院では、やる気があれば学年に関係なく取り組める風土があります。このような経験をさせていただけたことは、とてもありがたかったです。後期研修修了後は、MSFへの参加のために同院で産婦人科研修を受け、東京都立小児総合医療センターで小児救急を学びました。そして2013年に初めてMSFに参加しました。
―2013年以降、何度もMSFへ参加していますね。
2度目のMSFへの参加は、1度目のMSFから帰ってきた年の年末頃でした。1回目のMSFから帰ってくる頃、アフリカではすでにエボラ出血熱が出現し始め、あっという間に拡大していました。エボラ出血熱にかかってしまうと、介抱した方も感染し亡くなってしまう。自分の子どもがエボラ出血熱にかかってしまったら、親は「介抱するな」と言われても介抱します。国際社会がまだ動いていなくて、誰も助けていない状況でした。
MSFの一員として現地へ赴き、そこで生きている方々と緊迫したニーズ、そして医療を十分に提供できていない現状を見てきました。現地の方たちと一緒に働くことで、その方々の家族のことや生活の実情を知るようになります。知ってしまうと、もう見て見ぬ振りはできませんでした。
私を心配する両親を説得するのに2カ月かかりました。私が行ったところで、どの程度のサポートになるかは分かりません。それでも一人でも多い方が助けになるだろうという思いでMSFに参加してきました。
◆状況に合わせて変化してきた、柔軟なキャリア
―公衆衛生学を学ぶことにしたのは、なぜですか?
3度目のMSFで、もう一度エボラ出血熱関連の活動に参加しました。その時はエボラ出血熱の治療ではなく、再びエボラ出血熱が流行しても対応できるよう、医療保健制度といった公衆衛生の仕組みを整えることが主な活動でした。
というのも、医療機関内でもエボラ出血熱の感染が広がり、シエラレオネでは医師の3分の1が亡くなってしまいました。もともと少ない医療者数がさらに減少し、医療機関のキャパシティ不足が深刻な課題に――。さらに、国民の病院への信頼もなくなっていました。孤児も増えました。
東日本大震災が起こったときは、保健師が頑張って地域を巡回してくれたおかげで患者さんがある程度スクリーニングされ、本当に治療が必要な方が優先的に受診できていたように感じました。公衆衛生としての保健が成り立たないと病院はパンクしてしまい、病院としての役割を果たせないのです。
これまでの経験からこのように思い至り、公衆衛生学を学びたいと考えるように。2017年9月から1年間、London School of Hygiene and Tropical Medicine に留学し公衆衛生を学びました。その後、MSFで一緒に活動していたドイツ人男性と結婚。1年程ドイツで暮らし、医師業から離れていたこともありますが、現在は千葉県の安房地域医療センターに医師として勤務しています。
◆時代によって変わるニーズに応えられる自分でありたい
―今後の展望はどう考えていますか?
以前は国際保健に関わり続けようと思っていましたが、今はあまりこだわっていません。こうありたいと決めてしまうと、環境が変わっていっているにもかかわらず自分が頑なになってしまって、柔軟性がなくなってしまうからです。
1つのところに固定されず、その時必要とされているところに駆けつけられる環境をつくる。時代がどんどん変わっていく中で、 その時々のニーズに答えられる自分であることが、これからの自分の生き方だと思っています。
自分のアイデンティティは、以前は医師としての自分が9割くらいでしたが、今は5割程度に減ってきています。残りの5割は「お隣に住んでいる中山先生」という地域の中での自分ですね。
―そう考えるようになったのは、なぜでしょうか?
まず私にとって、医師は目的ではなくツールなのです。「人を助ける」「人が幸せになるきっかけをつくる」ことができるなら、医師でなくてもいいと思っています。
そして地域の中でお互いを支え合って生きていかないと、人間は幸せになれないと、私は感じています。なぜなら、もちろん医療が人を救う場面もありますが、最終的に人が救われていくのは「生活の中で」なのではないでしょうか。ですから、自分も含めて人が幸せに暮らすために、地域の中で自分にできることは何かを模索しています。もちろん私は世界を変えることはできないですし、周りの人を直接幸せにすることもできません。その人を幸せにするのは、その人しかいないと思っています。
ですが「人が幸せになるきっかけをつくる」ことはできるはず。そこに視点を置いているので、医師はツールと考えていますし、医師としてのアイデンティティが変化しても、焦りや不安はありません。
―最後に、キャリアに迷う医師に向けてのメッセージをお願いします。
キャリアについては、みんなすごく悩むと思います。しかし悩んだからといって、答えが出るとは限りません。Aがいいのか、Bがいいのか、比べてみても分からないことがあるでしょう。そんな時には、両方取り組んでみるのも1つの手。Aを選択してみて合わなければ、Bにも挑戦してみればいいと思います。
時代は変わり、転科や病院を移ることもできますし、医師も柔軟な生き方がしやすくなってきています。
そのように挑戦していく中で、きっと何かが見つかると思います。道を決めるまでは、さまざまなことを試してみるといいのではないでしょうか。そうすることで道が定まった時、しっかり腰を据えて頑張ることができると思います。
(インタビュー・文/coFFeedoctors編集部)※掲載日:2023年3月8日