自治会単位の「コミュニティサポート」
―現在取り組んでいることについて教えていただけますか?
9年間勤めてきた長野県にある諏訪中央病院を退職し、2019年4月から働き方を大きく変え、全国各地にあるいくつかの医療機関で非常勤として働きながら、ラベリングすると「コミュニティサポート」になりますが、その活動と研究にエネルギーをシフトすることにしました。
具体的には、2017年から「ほろ酔い座談会」という座談会を進めています。パイロット版は長野県茅野市玉川地区の13自治会、合計約800人の住民と共に行いました。
ほろ酔い座談会は、地区代表の方を中心に地域の保健師や病院、社会福祉協議会(社協)のコミュニティ・ソーシャルワーカーの方々と一緒に運営していきます。まずは打ち合わせで地元の人から地域の歴史や文化、人口構成、今の課題などを聞いて座談会のテーマを決定。座談会では、テーマに則した講師の講演を聴き、住民同士が話し合い、自治会ごとに自分たちの地域がより暮らしやすいやすい地域になるような行動に結びつけていきます。
ほろ酔い座談会はあくまでも1つのメソッド。このツールにこだわってはいないです。重要視しているのは、自治会単位で住民が参画してフラットに地域の課題を話し合ってもらうこと。その機会創出のために、外部の人間がちょっとサポートすることです。住民主体なので、行動の名称も住民が決めるのですが、高齢化率の高い地区では「目指せピンピンコロリ夫」という名前がつけられたことがありました。毎日無線放送でこの名前を流し、行動を促していたところ、地区の夫たちからは「俺を殺す気か!」と苦情が来ていたみたいですが、それでも住民が決めたことなので良しとしたこともありましたね。
2019年からは茅野市以外にも、隣の原村、福島県西会津町、北海道本別町などでも始めています。
―いわゆる「コミュニティサポート」を始めた理由はどのような点にあるのですか?
これまで諏訪中央病院で家庭医医療プログラムの環境を整え、在宅医療を進めてきましたが、それらは私にとって「先人たちが取り組んできたことの再発見」であり、「地域を見出すプロセス」でした。これまでこの地域の先生方が取り組んできたことを再発見し、さまざまな地域の人たちとの活動を通して、常に私のすぐそばに存在していた地域を見出す。そんな9年間でした。
すると今度は、医療の都合で分断されてしまっている患者さんやその人が住む地域の営みそのものを支援したいと思うようになったのです。つまりコミュニティサポートであり、諏訪中央病院名誉院長の鎌田實先生の言葉を借りると「健康の民主主義」ということ。
人口が減少していく局面にある日本で、どうしたら人々が幸せに暮らせるかを考えたとき、例えば収入を10%増やすとか寿命を10%増やすことでは人々は本質的にハッピーにはならないと思います。今ある自分や地域の営みのことを自分たちで考え、良さを見出していかなければならないと思うのです。その支援をしたいと考えました。
私は「医師」という肩書きがあまり好きではありませんでしたが、住民に近いところでの活動が増えていくにつれて、この肩書きはそれなりに影響力があり、地域の中で「良さ」を求めて何かを変えようとしている人たちにとっては便利であるということが分かってきました。そのような人たちに私の医師という肩書きを使ってもらおうと思いました。
家庭医と呼ばれたくなかった
―もともと家庭医を志したのはなぜですか?
恥ずかしながらあまりビジョンもなく、どの診療科に進みたいのかも長らく決められないでいました。家庭医としてのキャリアを積むことで腹を決めたのは、医師5年目でしたね。
医学生の時には、6年生になった頃から「このままなんのビジョンもないのはまずい」と思い、とりあえず初期研修先を探し始めることに。研修先病院が集まるイベントで「どうすれば2年間で使えるなと思われる医師になれますか」と聞いて回っていました。すると東京西徳洲会病院の先生が、唯一シンプルに「1人で救急車2000台の対応をすれば使える医師になる」と回答してくださったので、東京西徳洲会病院で初期研修を受けることを決めました。
初期研修の2年間は、自分が対応した救急車の台数を数えることが自分の仕事であり趣味でもありましたね。実際2千数百台の救急車対応をこなし、スキルはついたと思いますが、ある意味完全にパターン化して対応できるようになってしまい――もう少し頭を使って内科的な臨床スキルを身に着けたいと考えるようになりました。
そこで後期研修先を探す際もイベントのブースで色々な病院を探していたのですが――諏訪中央病院が一番うるさかったんです(笑)。それで実際に病院見学にも行ってみたら、カンファレンスの質や若手の積極性が高く、地方の病院ですが、自分たちで切磋琢磨して「何かやってやるぞ」という雰囲気がありました。ここなら勉強になるだろうと思って諏訪中央病院の家庭医療プログラムを受けることに決めました。
ただ、冒頭にも言ったように、この時点でも家庭医になることを決意していたわけではありませんでした。むしろ家庭医という言葉の甘いニュアンスが好きではなく、「内科の奥です」と自己紹介するほど、家庭医と呼ばれるのを嫌っていましたね。
―医師5年目でその考えが大きく変わったのはなぜですか?
諏訪中央病院の家庭医療プログラムのゲスト講師を務められていた、オレゴン健康科学大学家庭医療科の山下大輔先生のもとに、1カ月間研修させてもらい行ったことが大きな転機でした。
山下先生はどのような場面でもすっと組織に入り込み、その組織の一員として物事を動かしていました。山下先生が入り込む前からその組織は存在し動いていたはずなのですが、山下先生がいないと成立しない――そんな様子を目の当たりにしたのです。そのように動く山下先生から「家庭医は組織に入り込んでなんぼだ」というマインドを教わり、家庭医のやりがいを初めて知りました。
翻って、諏訪中央病院の中で家庭医としての自分に何ができるか考えた時、教育に携わることだと思ったのです。同院にの文化や空気感の中には確かに家庭医療的な「地域住民に近い温かい医療」が息づいていましたが、それが具体的に何なのかは分かりませんでした。そこを整備することこそが、家庭医としての自分に求められていることなのではないかと考えたのです。
決心がついたので指導医としてチィーチングスキルも身に着けながら、学習環境を整えていきました。ただ、新しいものをつくるというより、先程が言っているように、もともと諏訪中央病院にあった魅力を見出していくという感覚のほうが強かったですね。そうしていくうちに、徐々に「コミュニティサポート」へと関心を持つようになりました。
日々の営みを「よし」と思えるように
―今後は「コミュニティサポート」を通してどのようなことを目指しているのですか?
最初にも少し触れましたが、人口減少を迎えた日本で暮らす人々にとって、失っていくことや失われていくものが多くなっているかもしれません。しかし、このような状態でも、地域住民が今の状態に幸せを感じて「よし」と思えるように、日々の営みの中に希望を見出だせるようにしていきたいですね。
このような活動の原点は、振り返ってみると医学生時代にあったように思います。学生時代、アメリカにホームステイした経験があるのですが、ホームステイ先の老夫婦から「なぜ日本人はそんなに恵まれているのに、全然幸せそうではないのか?」という疑問を投げかけられたのです。私はその時、何も答えられませんでした。同時に、たとえ寿命が10%延びようが、年収が10%アップしようが、私たちは本質的には幸せにはならないだとうと思い、そのことにハッとさせられました。それ以降、日本人が幸せに暮らすためには何が必要なのかという疑問が、ずっと根底にありました。それからしばらくして、茶の湯を通してその答えになるような2つのことに気付きました。
初めて茶の湯に出会った日、山の中の茶室で師匠が「手にすくった水に中秋の名月を映して観る」という意味の掛け軸を読んでくださいました。「忙しくても心のどこかに余裕を持つこと、ちょっとした行為によって美が顕れる」という師匠からのメッセージでした。このメッセージで、実は目の前にすでに「よし」は存在していて、それを見出すのは我々側の主体的な工夫と行為がきっかけになるのだと知りました。
もう1つは「侘び寂び」。不足を意味する言葉ですが、私たちはさんさんと降り注ぐ太陽の下よりも、ろうそくの光のほうが、より鮮明に光の本質に焦点を当てることができます。つまり量的なものが減ったときにこそ本質を見出すチャンスでさり、人口減少を迎えた日本に暮らしているからこそ、病気になってさまざまな制限がある時こそ、本当に大切なものを見出すチャンスということです。
少し工夫すれば、私たちが暮らしている現代社会にも、すでに「よし」と思える可能性はたくさんあります。コミュニティサポートを通して地域住民が日々の営みの「よし」を再発見し、幸せなのかもしれないなと、自然に思えるように関わっていきたいですね。
(インタビュー・文/北森 悦)