小さな変化が大きな変化を生んだ
―今、どのような活動をしているか教えていただけますか?
2016年4月から島根県にある雲南市立病院に新設された、在宅診療を担う地域ケア科の部長として勤めています。私のミッションは、まず2つ。1つは地域ケア科の充実と院内や地域に根づかせること。そしてもう1つは、病院として在宅診療を始めることです。在宅診療はこれまで地域にある診療所の先生方が取り組んできていましたが、医療圏が広大で人口密度も少なく(周辺2町を加えると東京23区の倍、一方人口は一市二町で6万人弱)、しかも診療所も少ないため診療所だけでは担いきれない部分もあるのではないかと考え、病院としてその部分に取り組むために開設されました。
その他に、当院は島根大学の医学生や周辺の三次救急病院の初期研修地域実習の受け入れ先なので、総合診療分野における実習を手伝わせていただいています。当院ではまだ体系だった教育体制が整っていないので、私は京都大学で医学教育の1年コースをディスタントとして受けながら、私自身も勉強させてもらいながら、20名程の学生や研修医の教育に携わらせていただいています。
―雲南市の医療的問題点はどういったところにあるのでしょうか?
雲南市は、町おこしという観点では注目されていると思います。少子高齢化や人口減少が全国に先行して深刻化していて、それに対応すべく自治体のみならず住民も積極的に若手の力を発揮できるような環境づくりに取り組んでいます。何十年後かの日本の縮図とも言われてメディア等で取り上げられているように、少子高齢化対策における先進地域とも言えます。
ところが医療面では、医療者も患者さんも含めて比較的専門医・大病院指向が強いです。他の地域にもそのような傾向があるとは思いますが当地域も同様で、患者さんが「○○科を受診したい」というと希望通りに専門科に紹介してしまったり、住民の方が近隣都市の松江市や出雲市にあるより大きな病院を受診したりすることがありました。結果として患者さんは診断がつかないまま何年も過ごしていたりする状況が少なからずありました。地域包括ケアの観点からは、とても先進地域とはいえない状態です。
6年前に現在の院長が就任し、地域の自治体立病院としての役割をしっかり果たすことを明確に打ち出してからは「断らない病院」を目指しています。また、外科医である院長が中心となり地域を総合的に診る科としての「地域総合診療科」を作りました。その科で愁訴の多い患者を引き受け方向整理をしてから、当院での継続治療を含めて患者さんの行き先を決めています。しかし総合的に診て診断し、必要があれば各専門科に回す役割である総合診療医の認知度はまだ低いです。
―その他に課題はありますか?
あとは当院に着任して非常に強く感じたのが、病院と診療所が顔の見える関係性を築けていなかったことです。すでに医師会事務局を病院内に移設したり開放病床を設けたりすることで、医師会との連携を図る努力はされていましたが、やはり圏域が広すぎるためか十分な連携は取れていなかったようです。また、院内でも医療者同士のコミュニケーションが希薄で、特に大学病院から来てくださっている専門医の先生方とのコミュニケーションが十分には取れていませんでした。さらには書類や議事でのやりとりに頼っているために、かえってコミュケーションのフローがややこしくなっている部分もありました。
そのため私は自分のミッションを通して、病院と診療所、病院内のスタッフも同様に顔の見える関係になれるよう少しずつ取り組んでいます。急激に変化させてしまうと不和が生じてしまうのであくまでも少しずつ。でも、少し変えただけでも大きな変化が生まれてきています。これには、私も驚きましたね。
診療所との関係性の変化、院内の変化
―どんな変化が起こっているのですか?
まず病院の在宅医療の観点から、お話しします。病院としてはこれまで在宅医療を行っていませんでした。そのため病院が在宅医療を行うということは、これまで診療所が担っていた部分に病院が参入する形となります。
院内には在宅医療のノウハウがないので、まずはどのように在宅診療を行っていくかディスカッションを重ね、2016年8月から少しずつ訪問診療を始めました。2年前から院長が医師会への根回しをされていましたが、急激な変革を嫌う地域性もあり、4月に来たばかりで実際に訪問診療を担当する私があいさつ回りをするのは時期尚早ということで、まずは院長が地域全体へ改めて広報しました。
そして12月頃から、退院患者さんを診療所の在宅診療に移行する間に一度当院の在宅診療を挟むことで、スムーズに患者さんを地域に帰せる流れを構築したいことの説明を、私から診療所の先生方にさせていただく機会をもらいました。紹介状の署名しか見たことがない先生も多く、あいさつに行ってもあまり話をしてもらえないのではないかと、私一人で行くことがとても不安で緊張していました。
ところが実際に行ってみると、想像していたよりもずっと心を開いて話していただけました。診療所の実情や、病院に対して思う良い点も改善してほしい点も、いろんな話をしてくださいました。例えば、今の「断らない病院」を打ち出してくれたことで紹介しやすくなったという意見や、それでもまだ紹介しにくい事例はどうしたらいいかという相談もありました。
また、私だけではなく院内の医師も顔の見える関係になったほうがいいと考えていました。そのため診療所と病院合同で、診療所から紹介のあった難しい症例のケースディスカッションを構想していると伝えると、「ぜひともやりたい」という好意的な返答が多く返ってきたのです。後で聞いたのですが、事前に市の健康福祉部長が警戒感を解いてくれたそうで、大変にありがたい援護射撃でした。
この地域には今まで、病院と診療所の交流の場が単になかっただけで、必要以上に心理的な壁をお互いに作ってしまっていただけなのだと感じました。
―院内の交流に関してはどのような変化がありましたか?
病院では紹介の患者さんが多いため、診療所でも分からなかった患者さんに「診断」をつけることが求められます。もちろん総合診療科としてできる限りのことは行いますが、それでも分からない場合は、他科の協力を得て精検を行う必要があります。当院では外科の先生も多いですし、生検を行う技量はありました。ところが、これまでは横のつながりが薄かったためにその技量を発揮できず、出雲市や松江市の大きな病院に紹介していました。
他科にずっと診断がつかない患者さんがいて、当院での精査を希望される方々に対して私はどうしても診断をつけたいと思いました。そこで他科の先生に協力を依頼して腎臓や肝臓の精検をした結果、診断がついたのです。この1例が院内の成功体験となり、その後院内で診断し治療することができる患者さんが増えております。
総合診療医の立場から他科の医師に協力を仰ぐことで横のつながりが生まれました。そうすることで、当院での加療を望まれている患者さんを市外の病院に紹介しなくても当院だけで診断・治療が完結できると分かり、当院にとって大きな前進だったと思います。同時に、総合診療医としても達成感がありましたね。
離島で変えることの重要性を知った
―わずか8カ月で色々な点を変えていますね。
そうですね。でも、医師になりたての頃はむしろ地域に根付いていることは変えてはいけないと思っていました。
私は、研修で沖縄県の南大東島に3年間勤務していました。離島の診療所に勤務し始めて、変えたほうがいいと思うことがあっても、それまでずっとこのスタイルで島民の方は過ごしてきている。2、3年しかいない医師が変えても島民の方を刺激するだけで、自分がいなくなるとすぐに元通りになってしまうからあまり意味はないのではないかと思っていたんです。その反面、本当に変えなくていいのかという違和感もありました。
半年が過ぎたころに、ある保健師さんから「半年間接してきて変えたほうが患者さんにとって良いと思うなら、変えたほうがいい。ダメになって続かないかもと考えるのは島民を信用していないのではないか」と言われました。そこから色々始めたのです。
例えば、外来診療に予約制を導入したり、多職種の方の情報交換が希薄だったので、週1回の話し合いの場を設けたり、救急搬送の際の役場の方とのやり取りに非効率的な部分があったのでそれを解消するための勉強会を開いたりしてきました。
もちろん最初は不満を言われることもたくさんありましました。でも、島民の方の中に変えたことのメリットを感じる人が増えていくと自然と不満の声も少なくなり、それが定着していくのです。自分の思いだけで進めていたものは絶対にどこかのタイミングで行き詰まりストップします。ただそれもまた、1つの経験です。始めたら、ダメでも何かが生まれる。それを3年間で学びましたし、今の土台になっています。
―ちょっと変えることが、大きな可能性を秘めているように感じますね。
その通りです。離島も雲南市も、地域住民のために何ができるかを考えながら日々自分の取り組みを考え行動しPDCAを回していけるのですごく楽しいですし、やりがいを感じています。そして、それが本当に地域住民のためであれば、変えようと思ったら変わります。
最初、活動しにくさを感じたのは、医療者同士のコミュニケーションがあまり図られていなかったために横のつながりが少なかったからかなと思います。でも、一人ひとりの顔が見える関係になり考えを共有していくことで協力関係ができ、ものすごい変化につなげられると感じています。ちょっと変えれば、すごく変わります。それを雲南市でも繰り返し、住民のために医療のさまざまな点が良くなることを目指しています。