八ヶ岳が見える自然豊かな土地で医療がしたい
―永森先生が地域医療に興味を持ったのはなぜですか?
私が地域医療に興味を持ったのは、山梨県と長野県にまたがる八ヶ岳が眺められる地域で医療をしたいと思ったことがきっかけでした。
私は東京のど真ん中で育ち、東京慈恵会医科大学に入学。周りには大きなオフィスビルが立ち並び、行き交う人はサラリーマンばかりという環境で過ごしていました。そんな私が学生時代に八ヶ岳周辺へ遊びに行き、すっかりその絶景に魅了されてしまったのです。そして直感的に「この辺で往診しながら医療ができたら最高だな」と思いました。
地域医療のメッカである佐久総合病院を知ったのも、八ヶ岳周辺で医療がしたいと思ってからでした。卒業後、医局に入らず佐久総合病院で研修を受けましたが、採用面接の時に地域医療の草分けである若月俊一先生のことも知らず、面接官には「若月先生を知らずに面接を受けに来た学生は初めてだ」と怒られたほどでした。
今でこそ、多くの方に見学していただける地域医療のあり方の1つを展開できていますが、決して最初から自慢できるような大きな志があったわけではありませんでした。
―佐久総合病院での研修を修了されて、夕張市に赴任するまでのキャリアを教えていただけますか?
佐久総合病院では、人と人と自然との関係性の中に、おまけとして医療がくっついていることを、実感を持って学ばせてもらいました。ここでの経験は、今の活動の土台です。
ところが3年間の研修を終えた当時、「広く浅く診られる総合診療のスキルより、やはり専門性をしっかり身に付けたほうがいいかもしれない」と思うようになっていました。もちろん、プライマリケアのスキルは十分学ばせてもらいましたし、自然豊かな地域で医療ができることは、充実感につながっていました。しかし医師としてのキャリアを考えた時に、何も専門性を高めずに地域でのキャリアを積んでいくことが不安になってしまったのです。
結果、出身大学に戻り、皮膚科に入局することにしました。しかし東京に戻ってみると、やりたかった地域医療を続けなかったことに対する挫折感を、常に感じていました。もちろん皮膚科での経験は、地域医療で大いに役立っていますが、当時は事あるごとに後悔を感じていましたね。
それで再び地域医療に従事しようと決意を固め、各地を見学していました。その1つが、村上智彦先生が医療再生を進めようとしていた夕張市だったのです。初めてお会いして話をするうちに意気投合、村上先生から「ぜひ夕張市に来てほしい」との手紙をいただき、赴任を決意しました。
―夕張市が財政破綻し、市立病院が閉鎖後の医療再建。先の見えないミッションだったと思いますが、躊躇はなかったのですか?
あまりなかったです。夕張市は日本の将来像です。その夕張市が今後どうなっていくのか、自分たちが関わることでどう変化していくかこの目で見ていきたいとの思いがありました。あと、村上先生に付いていきたいとも思ったのです。
周囲からは、佐久総合病院で研修を受けると決めたときより大反対されました。正直、先が全く見えず、3カ月でとん挫する可能性も十分にあったので、当然と言えば当然かもしれません。ただ妻が「あなたが行きたいなら一緒に行ってみよう。もし3カ月でとん挫したら、その後のことはその時に考えればいいよ」と言ってくれたのが支えになりましたね。
医療再建による夕張市の変化
―村上先生とは、どのような点で意気投合したのですか?
一人の医師がいわゆる「赤ひげ先生」として地域の医療を守るために頑張るのではなく、色々な医師が気軽に地域に来られる環境が必要という点です。地域医療に興味がある医師が数年間勤務して帰り、また新たな医師が来る。もちろん来た医師は医療を頑張りますが、それ以外にも釣りや登山、ツーリングなど余暇も楽しむ。そんな地域であれば、興味を持っている医師がより来やすくなると思っていました。
考えていることが全く同じだった村上先生と共に、そのような地域をつくれるなら、自分も一緒に汗をかいて頑張りたいと思ったのです。
―夕張市の医療再建について、詳しく教えていただけますか?
2007年に夕張市は財政破綻し、市立の総合病院が閉鎖されました。その再建策は、19床の診療所運営・介護老人保健施設(老健)開設・訪問診療の3本柱に再編するというものでした。つまり、治療が終わった入院患者さんが老健でのリハビリで回復し、自宅に帰っていく。そして、訪問診療・訪問看護・訪問介護でサポートしていく。いわゆる地域包括ケアシステムを1年で構築することが私たちの使命でした。そして、1年間で在宅患者数を100名までにできたのは大きな成果だと思っています。
当然、最初は内外に抵抗勢力がありました。例えば、行政は救急医療に力を入れることを求めていたり、病院経営関係者は、経営的に病床数を増やすことを求めていたり―。しかし、当時高齢化率ほぼ45%の夕張市でやるべきことは、病床数を増やしたり救急医療を充実させたりして収益を増やすことではありません。この町でやるべきは、高齢者が幸せに暮らせるような環境をつくること。それには、病気になっても住み慣れた自宅で過ごせるような仕組みづくりが必要でした。地域包括ケアシステムが大きな注目を集めるより前に、私たちはそのような仕組みづくりを実行しました。
―夕張市が財政破綻したことで住民の意識が変わり、寿命は変わらないけれども医療費が下がったと聞きますが、実際に先生方は住民の方とどのように関わられたのですか?
夕張市が財政破綻したから医療費が下がったと言われていますが、実際には肺炎球菌ワクチンを公費にしたり、ピロリ菌チェックと除染を啓発したりしていくうちに、徐々に住民の健康に対する意識が変わり、結果的に医療費削減につながったのです。つまり、地道な予防医療を進めたのです。
住民の意識が変わり、例えば高血圧の方が食事に気を付けるようになったり、薬をきちんと飲むようになったりすることで、医師の負担も減りました。すると、このようなシステムに興味を持った医師が全国から集まるようになりました。最も多かった時期で、人口1万人に対して7名の医師が勤務していましたね。残念ながらお断りした方も同じくらいの人数いました。現在は別の医療法人が運営していますが、医師不足には陥っていません。
村上先生と共に考えていた「医療を通して、地域の高齢者が暮らしやすい環境づくりしていけば、住民も幸せになるし、そこで働く医師も幸せになる」という仮説を証明できたと思っています。
雇用を生み、地方創生を「ささえる医療」
―岩見沢市に「ささえるクリニック岩見沢」を開設した経緯は?
夕張市に医師が集まる仕組みが出来上がったことで、私たちは全道のべ30市町村の支援をすることができました。その中で、夕張市のすぐ南のエリアである南空知という地域の栗山町や由仁町には、在宅診療所がないことを知ったのです。それはつまり「家で亡くなる=突然死・孤独死」というとです。自分の活動拠点のこんなに近くに、このような地域があることに衝撃を受け、拠点を移すことにし、岩見沢市、栗山町、由仁町、長沼町、旭川市を診療エリアに在宅診療を行っています。
―訪問看護ステーションや、訪問介護事業所も開設されていますよね?
都市部は訪問看護ステーションが数多くあり、ケアマネージャーもたくさんいます。しかし医療資源が少ない岩見沢のような地域では、がん末期など重症患者さんにまでサービスを提供する余裕がありません。そのような患者さんでも自宅で過ごせる環境をつくるには、自分たちがワンセットで提供したほうが効率的なのです。
2018年1月からは、シェアハウス・シェアオフィス・コミュニティスペースを兼ね備えたミックス住宅「ささえるさんの家」もスタートさせました。施設型介護やホームホスピスなども考えましたが、最終的には「そもそも高齢者も若者も、誰でも住めるシェアハウスがあればいいんじゃないの?」という結論に至ったのです。終末期の高齢の方がシェアハウスに入っていて、隣の部屋に住む若者が自然と気にかけている―。そんな空間にしたいと思っています。
このように医療介護サービスを立ち上げていくことで、この地域に新たな雇用も生み出せます。
―地域に雇用を生み出す―。
滅んでいきそうな町を前にして、町の消滅を防ぐにはどうしたらいいか考えた結果、このような結論に至りました。地元の住民の方々が仕事を持ち、毎月稼いで税金を納めなければ町は存続できません。夕張市での経験から、そのことを理解しました。
実際に私たちが在宅診療所を始めて、デイサービス数カ所と訪問介護事業所も2カ所も増えました。このように医療から介護まで全てワンパックで立ち上げ、新たな雇用を生み、納税者が増え、住民の高齢化や人口減少を防ぐことにつながっていきます。つまり、医療介護を通して、地方創生ができるのです。これこそが、私たちの提唱してきた「ささえる医療」です。これからも、地域の人たちが動きやすいように寄り添い、陰で支えるという使命を全うしていきたいと思っています。