地域医療を支える医師たちを助けたい
―現在の取り組みを教えてください。
もともとは岩手県立中部病院の総合診療科に勤務していたのですが、2018年5月より、岩手医科大学の救急・災害・総合医学講座[総合診療医学分野]に在籍しています。まだ、立ち上げたばかりですが、岩手の総合診療のコアとなるべく活動を開始しています。現在は、外来診療に加え、学生教育や研修医指導、総合診療の勉強会の企画運営などを行い、プライマリケアや総合診療を学びたい学生、医師のサポートを行っています。
日本は現在超高齢社会を迎え、家庭医や総合診療医の必要性も、以前よりたびたび話題に上るようになりました。そういった国全体の問題とは別に、都道府県で全国2位の面積の岩手県には、人口も分散し、急性期医療も集約しにくいという特徴があります。他の医療圏の病院へ着くまでに、車で1~2時間はどこでもかかってしまう。地域の現場で働く総合診療医もそうですが、岩手では専門医療を担う医師の存在も不足しているのが現状なのです。
そこで、岩手医科大学で、学生や初期研修医に対する教育活動を通して、多様な診療の場面に柔軟に対応できて、地域や患者に寄り添うことができるマインドを持った医師の育成を目指しています。また、ここで学んだ医学生や研修医たちが、専門科間の垣根を超えて密に連携しながら、患者にとってより満足度の高い医療を提供していくことを期待しています。
―山田先生は2012年に「東北若手医師ネットワーク」の立ち上げもされています。現在医学教育に携わっていらっしゃること、医師ネットワークを立ち上げられたことのきっかけは、どのようなことがあるのでしょうか?
私が医学教育に携わるようになったのも、「東北若手医師ネットワーク」を立ち上げたのも、すべて人のご縁がつないでくれた結果です。しかしどちらにも、初期研修時に医療崩壊の現場を目の当たりにした経験が大きく影響していると思います。
私は三陸、本州最東端の岩手県立宮古病院で初期研修を行いましたが、専門医不足でまず循環器内科がなくなり、続いて私の在籍していた消化器内科もなくなるかもしれない状況に陥りました。またそれ以前から、地域のプライマリケアを担う医師も不足していて、例えば、人口5000人の地域を1人の医師が診察するような状況が長らく続いていたのです。
医師数が絶対的に不足しているなかで起きた東日本大震災の対応は大変なものでしたが、実は医療崩壊という意味では震災の前がもっとも危機的でした。震災以前、東北以外の方には「三陸ってどこ?」とよく聞かれました。ほとんど認知されておらず、東北の地域医療に誰も見向きもしないような状況だったように感じていました。
そもそも家庭医療を志したきっかけは、地域の方たちを助けたい、役に立ちたいという思いからでした。しかし、地域の医療崩壊の現場に日々触れ、あまりにも過酷な医療環境で、疲弊しながらも日々淡々と頑張っている地域の医師も助けたい、という思いが強まっていきました。
東北若手医師ネットワークは、外とつながりたくてもなかなかつながれない東北の若手の医師同士を、垣根なくつないでいくために立ち上げたものです。現在その活動は、「同世代の医師と出会える場所、つくります」を合言葉に2017年1月に東京で始まった10年目までの医師・医学生だけのセミナー/交流会「UML(United Medical Leaders)」に委譲しつつあります。
現場から見えてきた総合診療のビジョン
―現在は総合診療の医学教育に携わっていらっしゃいますが、それまではどういったキャリアを積まれてきたのでしょうか?
岩手県立宮古病院で研修を修了したあと、岩手県立中部病院が総合診療科を立ち上げたばかりということで誘っていただき、医師4年目から赴任しました。しかし、震災後、自身のなかでも総合診療をつくりたいという思いは強まっていたものの、どのような形がよいのかわからない状態でした。
そのようなとき、当時の院長先生に「総合診療をしっかりやっている病院を見てこないか」といっていただいて、洛和会音羽病院に1カ月、国立病院機構名古屋医療センターに2カ月短期研修に行きました。いずれの病院でもそれぞれ違うものが得られ、貴重な経験でした。
まず音羽病院で学んだのは、総合診療の技術的な面です。患者の病歴と身体所見から鑑別を挙げて診断し、エビデンスをきちんと調べ、それを治療まで落とし込む。内視鏡や手術のように見えやすいものに比べて、「目に見えにくい」領域であっても、徹底して行えば、多様な診療の場面で非常に大きな力になる、ということを実感しました。次の名古屋医療センターは、他科の先生たちや研修医が主体的に診療しているのを、総合診療科は支える、というスタンスでした。上から教えるのではなくサポートして下から支えていたのです。
またその際、とても実力のある総合診療の先生自身が、「総合診療は主役じゃないからね」とさらりと言われていました。すごく衝撃的で、腑に落ちたことを覚えています。総合診療医でも臓器別の専門医でも、その他に実際に力を尽くして働いてくれている人たちだったり、患者さん自身だったり、そういう人たちを支え、つなげて、感謝するのが総合診療科のあり方なんだ、と。
中部病院に戻ってからは、2つの病院で学んだことを活かして、まずは研修医が診療に主体的にかかわっていくためのシステムを整えていきました。研修医自身が担当する患者と、指導にあたってくれる上の医師が誰かを明確にして、より積極的に診療にかかわっていける、また、何かあったときにもすぐに相談できる体制を整えたのです。研修医が病院で診療している患者に関しては、夕方にカンファレンスを行い、みんなで振り返ってフィードバックする時間も必ず設けるようにしました。
また、1カ月に一度、メモリアルカンファレンスという研修の振り返りも必ず行うようにしました。そこでは、「あなたのことがこんなふうに見えていたよ、頑張ってくれたよね」といったことを伝えていました。こういったことを続けているうちに指導医の先生方も変わってきてくれて、総合診療科が研修先として人気の科になる、という好循環が生まれました。
総合診療医と専門医が支え合う医療環境を
―2018年5月からは岩手医科大に移られていますが、今後はどういったことを進めていきたいですか?
実は、岩手医科大学は2019年9月に盛岡から矢巾の新病院に移転します。移転にともなって、盛岡市に残る分院は規模が小さくなりますが、地域住民との距離がより近い中で診療が可能になると考えています。そして、大学がそのような現場を持つことは、総合診療を学ぶ学生や研修医、専攻医の教育の場として、とても意味があると考えています。今はまだ手探りの状態で、移転や医学教育も含めて未来に向けての準備中といったところですが、少しずつ着実に進めていきたいですね。
私には以前から、総合診療医/臓器別の専門医で隔てるのではなく、お互いを尊重して、歩み寄って地域の医療を支えられればという思いがありました。それが誰か1人のスーパードクターに地域医療を背負わせるような現状の打開にもつながると思っています。ですから、総合診療医をしっかり育成しながらも、専門医の先生にも総合診療を理解していただけるように発信していきたいと考えています。また、総合診療を最終的に選ばない学生や研修医にも、総合的に診療する視点や考え方を伝えていきたいと思います。そして総合診療を要として、診療所や病院、大学を有機的につないで地域医療に貢献できるネットワークをつくりたいと思っています。
―山田先生ご自身としては、医師としてどのようになっていきたいですか?
今は大学で総合診療の教育やネットワークをつくる仕事をしていますが、個人的に本当にやりたいことは、やはり生活の現場など、困っている人の一番近くにいることです。ですから、将来は訪問診療などを中心に地域の現場で診療できれば、と思っています。ただもし、総合診療医のネットワークができ、総合診療医も専門医もお互いに尊重しながら楽しく仕事ができ、地域の方のそれぞれの人生が大切にされて生きられるような医療のシステムができて、その時に医師としての自分がいなくてもいいなら、そもそも医師でなくてもいいかな、と思っています。最終的には、医師としての自分がいなくてもよくなるようにしたいのです。そして同じ人間として一番困っている人の近くにいて、支え、つなげる「何か」ができたら、それが一番幸せかもしれません。
私のキャリアの選び方はすべて人との出会いと直感によるもので、そういった意味ではすごく特殊です。今は医学教育のほうに引っ張られていて、一番やりたかった現場で患者を診療することからは少し離れていますが、これも理想の実現のために必要な過程と思っています。
私が好きな言葉に、「志は生きながら探して、探しながら生きる」というものがあります。「目の前の要請に応えること」と「自分がやりたいことを見つけること」は、一緒にやっていくなかで、同時に深まっていくことなのだと思います。「本当はこれがやりたかったのか!」とあとから見えてくることもあるので、不安になることはないと思うのです。若手の医師も、怖がらず恐れず、まずはやってみてほしい、飛び込んでみてほしいと思います。
(インタビュー/北森 悦、文/原田 怜果)