「病院経営」と「臨床」2つの業務を担当
―現在の取り組みについて教えてください。
2018年4月より独立行政法人労働者健康安全機構関東労災病院(神奈川県川崎市)で救急集中診療科に所属しながら医療マネジメントフェロー職として、病院経営の勉強をしています。経営会議に参加して、さまざまな視点から、病院の収益を高める戦略を施策したり、業務フローを見直したり、病院全体の医療安全の問題にも直接関わったりしています。
その他にはライフワークとして、以前勤めていた沖縄県立宮古病院を訪れ、指導医の能力開発(Faculty development)などを行っています。宮古病院の総合診療科を立ち上げたり、私が教えた研修医もまだ残っていたりするので、2~3カ月に1回ペースで戻り、教育面のサポートをしています。
―医療マネジメントフェローとしての役割を、もう少し具体的に教えていただけますか?
医療マネジメントフェローはして、主に3つの施策に取り組んでいます。
1つ目は患者さんの入退院支援の整備です。私が前任地でも取り組んでいた領域であり、関東労災病院での課題でもあったので着手しました。まず退院支援で、この病院の抱えている問題点を明らかにすること。そして、浮き彫りになった問題点を解消するために、看護師とソーシャルワーカーがどのようにして協働できるかをリデザインしています。
2つ目は、院内のクリニカルパスを整えて、医療の標準化や業務改善を行っています。例えば「誤嚥性肺炎」は呼吸器内科だけでなく、さまざまな診療科で診療していますが、これまで診療科ごとに抗菌薬選択や治療期間、リハビリ開始のタイミングなどが異なっていました。そこで、DPCデータと呼ばれる診療に関するレセプトデータの解析し、それをもとにばらつきを正し、標準的なクリニカルパスを作成。徐々に運用も始めています。
3つ目は1〜2ヶ月前から取り組み始めた、HCUやICUのベッドの稼働率を高めるためのベッドコントロールです。病床稼働率が低迷していたHCUやICUの利用基準を変更したりして、今は月3000万円の収益増が見込めるようになりました。
―医療マネジメントフェローになって思い描いたことができていますか?
大きな組織を扱う難しさを日々実感しています。沖縄県立宮古病院のときのほうが、組織に対する影響力が大きかったので、以前のほうが手応えはありました。経営分析もその頃から取り組んでいましたし、月単位の収入の推移を見たり、いくつかのプロジェクトチームを動かしたりしていたので、やろうと思えば、さまざまなことに挑戦できる環境がありました。
しかし医療マネジメントフェローになって、学べることもたくさんあります。プロジェクトなどでは、それまでほとんど相対することがなかった看護部長や、事務方のNo.2の方など責任のあるポジションの人との折衝が増え、上のレイヤーで物事を考えるようになりました。また、看護師や会計課の職員などの現場の人たちとのやりとりもあるので、現場レイヤーとマネジメントレイヤーを行き来しながら、幅広い視座が持てたのも大きな収穫になったと思います。
マネジメント力に磨きをかけるため外へ出る
ー医師を目指した理由は何ですか?また、その後のキャリアについても教えていただけますか?
私の父親は、私が3〜4歳の頃から長い間糖尿病を患っていました。糖尿病を発症したのは、父が33歳ぐらいの時。私の故郷である沖縄県は少し前まで日本一の長寿県と言われていましたが糖質や脂質の多い食事へと変わってきていました。父は35歳頃にはインスリン治療が始まり、たびたび夜間に低血糖発作を起こしていました。しかし医療のおかげで、劇的に改善する父親の姿を見て、医師に興味を持ったのが始まりです。
経済的な事情もあり自治医科大学へ進学。もともと、地域医療に関わりたいと考えていた私にとっては、自然な選択だったと思います。卒業後は沖縄県立中部病院のプライマリ・ケアコースに入り、粟国診療所や石垣島の県立八重山病院などに勤務していました。
その後、現在県立宮古病院の院長を務める先生(当時は副院長)から「宮古病院に家庭医療専門医の教育プログラムを作りたいから、力を貸してほしい」と声をかけてもらったのです。沖縄の離島の病院でも、人が集まり持続性のあるへき地モデルを1つ作れれば、と思い沖縄県立宮古病院に異動を決意しました。
というのも、沖縄県の離島の病院では、沖縄本島の病院からの派遣により若手医師が一定数集まりますが、1,2年ごとに入れ替わって、毎年ゼロからチーム作りを始めなければいけませんでした。時には7割もの医師が入れ替わることも。そうすると、何か活動を始めようと思っても、年度が変わるたびにリセットされてしまいます。それを避けるために、安定した機能を有するチームを持つべく人材育成の必要性を感じていました。ただ、八重山病院には、教育プログラムを立ち上げる環境がまだ整っていなかったので、宮古病院に異動しました。初年度、教育プログラムを開始するにあたって新たに総合診療科を開設。新しい科だったのですが、副院長を筆頭に指導医が私を含め3名、専攻医が4名の、計7名で開始。離島の内科系の医師はせいぜい12-13名ぐらいなので、比較的大所帯でのスタートでした。
人数は揃っていたものの、新しい科ゆえに院内外での認知度向上が急務でした。そこで、存在感を病院への貢献を認知してもらうために、何よりもまず診療に力を入れました。紹介状なし、もしくは宛先なしの紹介状を持参した外来患者さんは、可能な限り全て総合診療科で受けるようにしたのです。また、救急科からの入院患者数も多い病院で、全入院患者のうち約半数の45名を総合診療科で診ることに。ハイボリュームをこなし、院内でのプレゼンスを高めていくことで、徐々に存在感を示せるようになり、短期での研修も含め研修医の受け入れ人数が増加していきました。
―その後、関東労災病院への異動を決めた理由は何ですか?
実は赴任当初はずっと宮古病院にいようと思っていました。ところが、1,2年で総合診療科と研修プログラムが軌道に乗り、組織全体がうまく動くようになったのですが、それがある意味、恐怖でもありました。私の提案に反対する人が出現しない組織になりつつあって――危機感を覚えていましたしマネジメントや組織内での衝突・対立の解決、臨床研究など、自分に足りないスキルを伸ばすのにも、限界を感じていました。
宮古病院に在籍中に、CFMD(家庭医療学能力開発センター)が行っているリーダーシップディスタントフェローシッププログラムや京都大学大学院の医学教育学基礎コースなど越境学習も続けましたが、時間や学習内容なども限られているので、非連続的な成長と沖縄に戻るという目標に向けたスキルアップのため、外に出る決意をしました。
当初、宮古病院を辞めて、そのままアメリカへ留学しようと計画していました。しかし、周りの先輩方に相談してみると、一旦東京に身を置いて、国内でのネットワークを拡げながら、最終的に自分がどこに着地したいかを見つめ直したほうがいいとアドバイスをいただきました。そこで、2年間という期間を決め組織管理やマネジメントに関われる関東労災病院の医療マネジメントフェローに挑戦することを決めました。
病院経営ではなく地域医療への貢献がゴール
―今後の抱負を教えていただけますか?
実は、昨年慶応大学大学院健康マネジメント研究科・ビジネススクールの特別学生として、病院経営に加えて田中滋先生から医療政策を学びました。病院経営に取り組むときには、現場、病院、医療政策という3つのレイヤーを意識することが重要であるとされるのですが、沖縄にいた頃には持っていなかった、医療政策の視点が広がっていることを感じています。そのため地域に貢献するために、政策を理解し提言できるまでになりたいと考えていて、具体的に次のステップとしては、アメリカへ留学し、公共政策学と医療政策管理学の修士号を取得したいと思っています。
私の中で課題感として大きいのは「地域の健康格差」。宮古病院で働いている時には、患者さんが医療に接するタイミングが遅すぎると感じることが頻繁にありました。本来医師の仕事は病院の外にあり、いかにして病院に辿り着く前に健康を考える視点で住民と関われるか――。そのため病院からもっと出て行き地域住民へアプローチしたかったのですが、宮古病院では、そこまでたどりつけませんでした。そこまで到達するためには、医療者の役割を捉え直す必要があり、地域の産業を支えながら健康を支える視点が必要になってきます。留学先では、必要な視点やスキルが学べればと思っています。
―留学後は、どのようなことに挑戦しようと考えているのですか?
今一度、自分の根底にある想いを考えたときに、自分の目指すべきゴールは「地域への貢献」。最近ようやく、このことに気付きました。そのためまだ留学後すぐとは決めていませんが、再び沖縄に戻りたいですね。
沖縄の地域、特に小規模離島では、インフラとしての医療が安定しているとは言えませんし、介護資源も十分でないので粟国島のような小規模離島であれば、一定以上の健康を保っていない住民は島外転出しなければなりません。住民が自分の生まれ育った場所で安心して最期まで過ごすためにはできる限り長く健康でい続ける必要があります。健康という視点では地域における飲酒の文化、これからの時代における死生観に関する対話など――、取り組むべき課題がたくさんあります。そこにまで入り込まないと、本当の意味で地域社会に貢献していると言えません。
そのためには、医療を提供しているだけではいけない。病院経営を通して医療をさらに効率化して安定化させることで、医師である自分はもう一歩二歩前線に立ち、さらに住民の元へ入り込み、地域に貢献したいですね。
(インタビュー・北森 悦/文・西谷 忠和)