触れにくい境界領域へ挑む
―現在、国立保健医療科学院ではどのような取り組みをされているのですか?
国立保健医療科学院では、研究や研修を通じて国内外の「ヘルスセキュリティ」強化に向けた活動を行っています。ここで言うヘルスセキュリティとは、健康危機を及ぼす危険因子を想定し、予防・準備・検知・対応など、健康を守るための危機管理体制のことを指します。イギリスへ留学したことをきっかけに、日本の危機管理体制の脆さに課題感を抱いたことが原点となり、現在のヘルスセキュリティ強化の活動につながっています。
具体的には、「プリペアドネス」といわれる公衆衛生に関する対策を自治体に根付かせ、日本の危機管理サイクルを整える仕事をしています。イギリスなどでは危機管理に対する訓練や準備をする専門部門がありますが、残念ながら日本には現在そういった部門はありません。日本の危機管理体制の質を向上させるべく、このプリペアドネスの活動を通じて、国内にもしっかりとした体制を構築していきたいです。
さらには消防や警察、自衛隊などの他機関との連携を図る活動も進めています。例えば、新型インフルエンザや生物テロが生じたとき、公衆衛生部門だけで事態を終息させるのは難しいため、様々な機関との協力関係は非常に重要になります。このような関係を構築するお手伝いをしています。
他機関との連携において難しいのは、やはりコミュニケーションギャップがあること。お互いの認識にズレが生じると、連携もそう上手くはいきません。そのため、ちょっとした理解のズレがどこにあるのか、どのようにしたらそのズレを解消できるか、という点に特に気をつけながら日々仕事をしています。過去には、厚生労働省で国内外問わず外部との中間に立って連携する仕事に従事していたので、その時の経験が今生かされていると思います。
―ヘルスセキュリティの中でも、特にどのような研究に注力されているのですか?
私は、ヘルスセキュリティの中に含まれる「バイオセキュリティ」という領域の研究に注力しています。具体的には、感染症流行や生物学的脅威に対し、包括的な防衛策を扱う分野のことを指します。これまでは公衆衛生学や国際保健学、安全保障学などの観点から研究がされてきましたが、近年複雑化する生物学的脅威に対処するべく、それぞれの学問を包括的に扱う必要が出てきています。公衆衛生と安全保障の両方の観点から感染症を見るという新しい学問領域として「バイオセキュリティ」を確立すること、そしてキャリアパスの明確化にも取り組んでいます。
―ヘルスセキュリティやバイオセキュリティという言葉は初めて聞きました。
現在、ヘルスセキュリティはまだ学問として確立されていません。ヘルスセキュリティに内在するバイオセキュリティ分野に焦点を置くと、感染症を公衆衛生と安全保障の両面から見るという境界領域に挑むので、研究を志す若手からすると、論文は書きにくく就職先もほとんど無いので、キャリアパスを描くことは難しいのが現状です。ですので、ヘルスセキュリティ領域でのキャリアパスを確立するための取り組みも進めています。
取り組みとしては、ヘルスセキュリティをできるだけ分かりやすく説明した書籍の出版や公衆衛生大学院と連携しながら、ヘルスセキュリティやバイオセキュリティを学べる教育拠点を今後つくりたいと思っています。
アカデミアと行政の中間地点に立つ
―ところで、医師から研究の道へ進むことになったのはなぜですか?
元々は臨床医として医学の知識や技術を駆使して人を癒し、人の役に立つような仕事をしたいと思い、医師を目指していました。ただ医学生の頃になると、臨床よりももう少し社会と関わりのある仕事をしたいという気持ちが出てきて、感染症や災害医療、国際保健などが自分の進みたい道としてイメージされるようになりました。今思えば、当時イメージしていた分野が混ざりあったことが現在の取り組みになっています。
しかし、当時はまだ感染症のスペシャリティが確立していませんでした。そのため、どうすれば感染症について学べるか、さまざまな研究室の教授や臨床の先生方にお話を伺っていました。そんな時、熱帯医学寄生虫学の先生が「感染症はもう、人1人を診る時代ではない。マス(集団)で診る時代だ」と話されていたのです。
先ほどお話したように、漠然ともう少し社会との関わりがある仕事がしたいと考えていた私は、「これがまさしく自分の考えていることだ」と感じました。さらに「まずは基礎研究をして学位を取り、次のステージへ行けばいいのでは」とアドバイスをいただきました。そこで医学部を卒業した後、同大学の熱帯医学寄生虫学研究室で基礎研究に従事することとなったのです。
―基礎研究をされた後はどのようなキャリアを積まれたのでしょうか?
基礎研究の成果がある程度まとまってきた頃、厚生労働省の研究費で生物テロ対策として天然痘ワクチンを備蓄する時の必要な備蓄量を試算する研究班に所属する機会がありました。これをきっかけに、日本の公衆衛生危機管理体制に対して課題感を抱くようになります。そこで米国で公衆衛生学修士を取得し、感染症の基礎研究から公衆衛生分野へ本格的にシフトしたのです。
その後は慶応義塾大学のグローバルセキュリティ研究所を経て、イギリスのHealth Protection Agency(健康保護庁)へも訪問研究員として留学しました。留学の目的は、日本とイギリスの生物化学テロ対策の比較。公衆衛生の側面から、それぞれの国がどのような対策を行っているのか比較しました。イギリスの公衆衛生対応は、日本のそれとは大きく異なっており、非常に戦略的で計画的で衝撃を受けましたね。その後、厚労省に出向する機会を頂きました。厚労省では特に生物テロ、新型インフルエンザ対策や化学テロ対策などの方面に関わるようになっていきました。
―アカデミア側から行政側を経験して、現在の保健医療科学院に。環境が変化したことで活動内容にどのような変化がありましたか?
行政の中ではほぼ2年ごとに異動があるので、特定の分野に従事したくても続けることはできません。一方、同じ分野に取り組み続けるためにアカデミアに行くと、危機管理分野は機微な情報が多く、全ての情報を共有してもらえません。ですから危機管理に関わり続けるには、行政側でもアカデミア側でも一長一短あることを痛感しましたね。
そのため、現在では厚労省が管轄する研究機関の国立保健医療科学院に所属して危機管理に携わり、まさにアカデミアと行政の中間地点に立てる場所にいます。私が中間地点に立つことで、行政の担当者が年度ごとに変わっても、私が経緯や専門的知見を継続的にストックし、必要な時に必要な知見を提供することができます。研究主体であったのが、行政実務を経て、現在は両者の中間地点に立つという変化がありました。
医師であり研究者である自分の軸
―齋藤先生の今後の活動について教えてください。
ヘルスセキュリティについて分かりやすく伝え、この分野を志す若手を増やしたいと思っています。しかし、この分野の具体的な内容をどこまで公にするかを決めるのは、難しい問題です。個人的に思うのは、危機管理が目立っている時は大抵の場合悪い事態が起きていたり、対策に失敗したりした時だということ。本当は目立たない方がいいのですが、 キャリアパスを明確にするためには、もっと具体的な活動内容を分かりやすく伝えていかなくてはいけないとも思っています。
現在はSNSを利用して自分の活動を発信したり、研究発表の様子を動画でネット上に載せたりしています。危機管理に興味を持った人が「ヘルスセキュリティ」とネットで検索した時に理解できるような場所は用意しておきたいと考えています。
―これから公衆衛生分野に進む若手に伝えたいことはありますか?
確かに公衆衛生分野は、他職種出身でも活躍されている方も多いため、医師がその道に進むと、アイデンティティクライシスに陥る危険性があるかもしれません。私もかつて、医師の資格をもつ自分と研究者としての自分との狭間で悩んだことは幾度もありました。
だからこそ若手に今伝えたいのは、若いうちから「なぜ医師である自分が公衆衛生に関わるのか」ということをしっかりと考えてほしいですね。他の職種と比べて、自分にはどんなアドバンテージがあって、自分には何ができるのか。それらにちょっとした「自信」を持つことができれば、きっとどんな環境に置かれても、どんなキャリアパスに進もうと自分の納得のいく未来につながっていくと私は思います。
(インタビュー・文/岩田 真季)※掲載日:2019年12月10日