医療でアジアを繋ぐ
現在、本職である耳鼻科医をされながら、アジアで様々なプロジェクトを行っていると伺いました。より詳しい内容をお聞かせ頂けますか?
普段は週6日、千葉県の柏市にある慈恵医大で、耳鼻科医として働いています。
本職とは別に個人の活動として、年1回、ラオスやカンボジアに行き、国際医療協力をしています。その他にも、韓国と日本の学生を繋げたり、医学部進学予備校(YMS)にて世界で起きている事についてお話をしたり、遠隔通訳などを行なったりと、医師として様々な活動していますが、それらは全て一つのコンセプトに基づいています。
それは私のNGOの名前でもある「Unite Asia with Medicine and People」、つまり「医療と人が、アジアと日本を繋げる」という事です。
いろいろな活動をされているのですね。具体的に、ラオスやカンボジアにいってどのような事をされているのでしょうか?
主に病院を回り、医師達に技術共有をします。
例えば先日は、勤務先である慈恵医大の耳鼻科医師、手術室看護師、医学生を含め10名のチームを作り、内視鏡下鼻内手術及び、医療技術のレクチャーをカンボジアでしてきました。現地の医師が大勢来てくれて、回数を重ねる毎に、医師の技術があがっています。
また、ラオスの耳鼻科の医師に会いに行った際は、病院の環境が整っておらず、日本の耳鼻科医にとっては当たり前である、手術用の内視鏡機材はもちろんのこと、外来診察で試用する軟性鏡も無い状態でした。それでは技術もつきません。
そこで、以前ミャンマーで共に活動をしていた元JICAのシニアボランティアの看護師と協力をし、日本政府へ1000万円分の機材寄付の申請を行いました。幸い、寄付を頂く事が出来ました。
ただ、高度な器具を導入した事に満足して、結局現地の医師が実務で使えない、ということを防ぐために、その器具の使い方や、患者を治す技術を5年から10年かけて教育することを病院側と日本政府に約束しました。技術を共有することは、現地の医師を尊敬する事でもあります。
最近では、「ダビンチ」などの手術機械が導入されるにつれ、遠隔地にいる、先進国の医師がモニター越しに手術をし、その間途上国の医師は黙って見ている、ということも技術的に可能になってきています。しかし、そのシステムの中に「現地を育てる」という心が入っていないと上手くいかないと思っています。遠くから手術を一方的に施したりするだけでなく、技術やお互いの医療に対する心を共有する事が一番大事です。
良い医療に触れない医師は、良い医療ができない
医療での国際協力というと、患者様を治すイメージがありますが、医師に技術教育をすることも国際協力ということなんですね!
僕も最初は、「国際医療協力」といえば患者達を助けることだと思っていたのですが、蓋をあけてみれば、いい医療に接する事ができていないのは医師も同じだったんです。
現地では、ほとんどの医師がキャリアプランを描けない状況でした。ごく限られた裕福な医師だけは、米国に行き研修等を受けることができます。といっても、米国での医学セミナーは、たったの1週間でも交通費や宿泊費を合わせると数十万円程かかります。月収1−2万円のアジア人医師が簡単に払える訳がありません。
仮に留学したとして、タイくらい国の経済レベルが高くなれば帰国するのですが、GDPの低いカンボジア、ネパール、ラオスでは、医師は留学先に留まり家族に送金する方を選んでいる医師が多いと聞きます。結果的に優秀な人材が国外流出していきます。
また、アジアに住む裕福な患者は「自分の国で医療を受けたら死んじゃうよ」と言って、国外へ出て行ってしまいます。国内に残った医師には、成長や研磨の機会がないわけです。医師にはスキルを磨き続ける環境が必要です。10年前の技術で手術をされたら、嫌でしょう?
それにしても、どんなきっかけでこのような活動を始めたのでしょうか。
実は、僕は最初から国際医療協力を志していたわけでも、アジア好きだったわけでもないのです。汚い屋台は嫌でしたし、旅行もリゾート志向でした。
研修医2年・救急救命科1年と修行した後、アメリカに留学しようか迷っていた時に、国際医療協力をしているNPO法人JAPAN HEARTの代表・吉岡秀人先生の講演を聴き、ガツンと衝撃を受けました。
とにかく彼と一緒に働きたいと思い、手紙を出すと、「では来てくれ」と言われた先がミャンマーでした。それからですね。ミャンマーで1年働き、その後タイの大学に通ったり、ネパールやカンボジアに行ったりとネットワークを広げていきました。
アジアは学ぶ事が多いし、波長も合うし、今では大好きですよ。
元々はアジアの国際医療協力を志していたわけではなかった、とおっしゃっていましたが、それまではどんな医師を志していたのでしょうか。また、大村先生が医師を目指されたきっかけはどのようなものだったのですか。
医師になったきっかけは、親の背中をみて、というやつですね。父も医師で楽しそうだったんです。
また、中学生や高校生の時から「ターミナルケア」に関する講演などに足を運んでいました。当時、訴えを全く聞かれずに患者が痛みながら死んでいくことが世間的な問題になっていました。本当かどうか確かめたくて、大学でもそのテーマで研究を続け、文化祭では「ターミナルケアに興味があり、それに関する講演」を企画主催しました。
大学の6年のときには、ターミナルケアの本拠地とも言えるイギリスに2ヶ月行きました。そうしたら逆に「これはマインドとしてのものであり、自分のなかで専門科として選択するものではない」ということに気付いたのです。
その後、帰国して研修医・救急救命科医として勤め、アメリカに行こうかと考えている時に、前述の吉岡秀人先生の話を聞いてミャンマーへ…、という流れなのです。
とにかくアジアが好き!その気持ちがよくしたいと思う原動力
方向転換に当時のお仲間にも驚かれたでしょう?
はい。医療の国際協力はお金も時間もとられるのに、なぜそんなに行くのかと聞かれることも多々あります。ずっと答えに悩んでいたのですが、最近は「これは趣味なんだ」と思うようになりました。
僕は車も持たないし、洋服もまとめ買いして同じものばかり着ます。他の趣味はないけれど、国際医療協力は趣味だから、積極的にお金と時間を使ってもいい。変な言い方かもしれないけれど、他の方がゴルフにお金を使うような感じかもしれません。それくらい、すごく好きだし心地よいです。
ネットワークを広げていくことも、現地の医師たちと、点だけでなくて線で関わって、教えていた技術がどんどん出来るようになっていくのを見るのも、とにかく楽しいです。
ちなみに、費用等はどうされているのですか。
個人の活動として行っているので、渡航費や滞在費は全て自費です。ただお休みをもらっていること自体が「認めてもらっていること」と考えています。というのも10名程度のチームが1~2週間抜けてしまう事は大学病院にとっては大きい痛手です。
日本で初めて、国際医療協力を公式に行なうことのできる慈恵医大という環境は、恵まれていると思いますね。
日本に居る外国人も医療のサポートを
今後は、どのような道を目指していくのでしょうか。
先ず本職の耳鼻科医としては、「日本で、他の医者に手術技術を共有できる存在になりたい」と思っています。一流の手術技術を持ちたいし、教える存在になりたいですね。
また今新たに「在日外国人への院内サポートプロジェクト」を始めたところです。国際医療協力は、現地に行くのが全てではありません。
慈恵医大は新橋にも病院がありますが、救急外来受診患者全体の6%が外国人です。医療で、コミュニケーションは非常に重要ですが、通訳サポートのあるところがまずないので、意思疎通がうまくできず、患者も医療者も戸惑ってしまうと言う現実があります。
そのような状況を何とか整理し、前向きな活動にしていきたいと思っています。
読者へメッセージをお願いします!
仮に、憎しみあっている国同士だとしても、相手国の医師に自分のお母さんを治してもらえたら、嬉しいですよね。国同士の外交では問題を抱えているとしても、僕らがアジアの一員である事に変わりはありません。
医療というのは、中立な立場に立てるものなんです。しかも、医療者でなくとも、海外に行かなくとも国際医療協力は可能です。ぜひ日本で、外国人の院内サポートボランティアや、その他お好きなプロジェクトに関わって下さい。
「貧困かぁ…大変だね。」ではなく「ミャンマー人の○○ちゃん」が目の前にいる状況となれば、視線や世界は一気に変わります。小さなきっかけ作りで、その国の人達の新たな一面を知る、好きになったり嫌になったり、「リアル」を知る事が大事だと思います。
ぜひ少しでもお手伝い頂けたら嬉しいです。一歩とは言わずとも、半歩だけでも踏み出してみてほしいです。あとは一緒にやりましょう!
ライター・インタビュアー/松澤亜美