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INTERVIEW

横浜市立大学附属病院

麻酔科 / 病院長

後藤 隆久

学び続ければ、視野が広がり道は拓ける

医療崩壊の時代に将来に失望し、けれど偶然のビジネススクールとの出会いから、医療経済、医療政策を学習。地域の事例から世の中を変えていけることを知り、専門医の育成や産休・育休制度の取得率を高める体制の構築など、大学教授という立場から医療改革に力を注ぐこととなった後藤隆久先生。のちに横浜市立大学附属病院の病院長となり、改革を続ける一方、医師の多様性を重んじ、個々の希望に沿った支援を行なわれています。後進に学ぶことの大切さを説く先生に、これまで歩んで来た道と、現在の挑戦について伺いました。

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◆地域で事例を作れば、世の中を変えられる

―なぜ、麻酔科医の道に進まれたのはなぜですか?

学生時代「人を救うには、救急科・集中治療で全身を診られるようになろう」と考えていました。ただ当時は、集中治療の専門医制度も整っていない時代。そこでさまざま先生に相談する中で、ある先生から「救急やICUなどの領域に進みたいなら、まずは既存の科で専門医を取らないとアイデンティティがなくなる。自分の高校の後輩に森田茂穂という人がいて、米国マサチューセッツ総合病院で研修を終え、帝京大学市原病院(現・帝京大学 ちば総合医療センター)で麻酔科の教室を開いたので、見に行ったらどうか」と勧められて――。それで森田先生にお会いしたところ、2時間で魅了されて入局を決めてしまいました。

そして翌年、1988年には帝京大学市原病院の研修医第一号として、米国マサチューセッツ総合病院麻酔科でレジデントになりました。アメリカで臨床研修をしようと思ったら、Educational Commission For Foreign Medical Graduates(ECFMG)が必要ですが、それは本当にギリギリでの合格でした。ですが森田先生が推薦してくださり、当時マサチューセッツ総合病院の麻酔科主任教授だった方が森田先生の大親友だったこともあって、受け入れてくださったんです。

―帰国後は、帝京大学市原病院を経て帝京大学医学部で麻酔科の教授に。そして2006年には、横浜市立大学医学部麻酔科教授になられています。その経緯を教えてください。

もともと実家が横浜でいずれは戻りたいと考えていましたが、私が横浜市大に来る前の2002〜03年は、麻酔科をはじめとしてさまざまな科で医療崩壊が起こり、医師不足が露呈した時期だったんです。常勤医を辞めてアルバイトで稼ぐ医師が増えていたんですね。

私が2002年までいた帝京大学市原病院は、臨床研究する余裕もあって楽しかったのですが、2002年に本院に移動した後は、とにかく忙しくて身体もきつかったです。それで、将来に希望が持てなくなってしまったんですね。「自分も大学病院を辞めて、アルバイト麻酔科医として食べていこうか……」と思っていました。

ところがある日、当直明けの帰宅途中に、慶應義塾大学のビジネススクールに通っている社会人学生とすれ違ったんです。みんなエネルギーに溢れていて聡明で、輝いて見えました。一方の自分は、ボロボロに疲れ切っていて――。

この差を痛感して、つくづくあちら側に行きたいと思ったのです。それで、自分もまずは同スクールの医療関連の週末セミナーに参加してみました。すると、介護保険制度を作ったお一人である田中滋先生(現・埼玉県立大学理事長)が講師として登壇されました。田中先生は「私は日本の医療政策をこう考えていて、こういう風に変えていきます」と、一人称で国の政策を語られる。それに驚き、この方の授業をきちんと理解したら、今の立場から救われるかもしれないと感じました。

―そこから医療政策を学ばれたのですね。

彼の科目等履修生になって、医療経済と医療政策を学びました。すると、今よく言われる地域包括ケアシステムも、厚労省が机の上で作ったものではなく、岡山県尾道市や熊本市の医師会や病院が一生懸命取り組んでいた事例を制度化したものだったと分かりました。要するに、地域に事例を作ることで世の中が変えられることを教えてくれたのです。

その時にちょうど横浜市大の教授選考があり、聞けば、横浜市大には麻酔科医が約200人いて、関連病院が30ぐらいあり、日本で1、2位を争う医局だと――。「そこを発展させられたら、あちこちで崩壊している麻酔科診療に関して1つのモデルが示せるのでは」と思ったのです。それが教授選考に応募した最大のモチベーションになりました。

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PROFILE

後藤 隆久

横浜市立大学附属病院

後藤 隆久

横浜市立大学附属病院 病院長
1987年、東京大学医学部医学科卒業。1987年、帝京大学医学部附属市原病院麻酔科に入局。 1988年に渡米し、マサチューセッツ総合病院 麻酔科レジデントを経て1992年、マサチューセッツ総合病院麻酔科集中治療医学フェローに。1993年に帰国し、帝京大学医学部附属市原病院麻酔科助手、講師、助教授を経て、 2002年に 麻酔科教授に就任。 2006年 より横浜市立大学医学部麻酔科教授に。2016 年より横浜市立大学附属市民総合医療センター 病院長を兼務し、 2020年から現職。また2021年より、東京大学大学院 教育学研究科 大学経営・政策コース修士課程で、今後の大学のあり方について学びを深めている。

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