ネットワークで支える医療
本吉病院とはどのようなところだったのですか
震災前まで、本吉病院は消化器内科のみの単科病院でした。院長と常勤医の2名で診察を行っていましたが、震災から10日程経った時にその2名とも退職してしまい、医師が居ない異常事態となってしまったのです。また津波の被害が大きく、病院の1階部分は浸水し、カルテや医療機器も全て使えない状況になっていました。
私は、所属していたボランティア団体のメンバーの1人として行ったのですが、その悲惨な状況を見て、短期のボランティアではなく定期的に通おうと思いました。
震災後、本吉病院で働き続けようと思ったのはなぜですか?
あの当時の悲惨な状況を見て見ぬふりは出来なかった事が一番ですね。当初、所属病院で通常の勤務もしながら、多い時では月に15回病院に通っていました。山形県の酒田市にある自宅から車で片道4時間かけて通うのですが、雪や震災の影響から移動がとても大変で、片手では足りないくらい事故にも遭いました。それでも、あの当時は「地震と津波に襲われた人々を見ながら、そんな事を言っていられない!」と思っていました。
そして、震災後に本吉病院にボランティアに来たメンバーは皆とても士気が高く、仕事はとても面白かったんです。その後2011年10月に本吉病院の院長になりました。この3年で消化器内科の単科病院だった本吉病院は大きく変わりました。
しかし、それは私一人が何かをしたのかというとそういう訳ではなく、本吉病院や地域全体が立ち直っていくところに一緒にいたという感じですね。
「自分がいなくても回る」そのシステムづくり
本吉病院の院長としてどのような事をされたのですか
私がした事と言えば、患者さんを断らない事です。老若男女あらゆる健康問題に対応するというスタンスで毎日診察に臨んでいました。
そして、在宅医療にも力を入れました。医師になってから本吉病院に来るまでずっと総合診療医として在宅医療に関わり、「ゆりかごから墓場まで(患者さんと関わる)」と言う勉強をしてきたので、欲張りですけど、その地域の全ての人に関わろうと思っていました。
そう思って地域の人に関わり始めると、その家族やその人を支えている医療以外の介護・福祉・保険などの分野の人達が物凄く喜んでくれたんです。
と言うのも、今まで何か困ったことがあった時に相談しようと思っても、仙台にある総合病院まで行くしか方法がありませんでした。それが本吉になったんです。なかなかピンとこないと思いますが、気仙沼から仙台までは、車で2 時間もかかってとても遠いんですよ。
そして、「点」や「線」ではなくて「網」で患者さんを支えたいと思いながら診療をしていました。1人だと点、2人だと線ですが、3人くらいになると少し幅ができます。こういうネットワークで弱いところを支えたいんです。
「私」が診るという考えで診ていると、「私」が倒れて診察が出来なったらどうしようもなくなるんですが、「網」で診ていたら、誰かがフォローをしてくれるのでそう言った事にはならないですよね。金魚すくいのポイみたいな感じです。真ん中が空いても金魚は掬えるでしょ。
私が本吉で院長として必死にやっていたのに、スポッと抜けられるのは、私がこのネットワークの一部だったからです。だからもしちょっと弱いところが出来ても、そういうのは補っていけるので大丈夫なのです。
どのようにして、そのようなネットワークを作られたんでしょうか?
まずは初めての事に関しては、自分が率先して一から十まで教えました。例えば、本吉病院の看護師やスタッフのほとんどが、在宅医療を行うのが初めてだったので、最初は自分が全てを教えました。
ネットワークが出来たのは、赴任して1年経たない位から、周りにずっと「いずれ辞める」と言い続けてきたので、周りのスタッフも「自分たちがしっかりしなければ」と危機感を持っていたからではないかと思います。また、やはり士気の高いメンバーに支えられたという事が大きいと思います。
いなくなると言う宣言が大事という訳ではないですが、現地のスタッフが主体的に動かないといけないとは常々考えて接していました。トップが変わる度に医療が変わる様では話にならないので。彼らは、今、日本有数の士気の高さを持っていますが、今後は維持する努力はしないといけないとも思います。質を保ちながら継続的な医療サービスをする事は難しいと思います。
本吉病院を離れる
本吉病院を離れるようになったのはなぜでしょうか?
去年の春、本吉病院に数か月いた研修医が、研修期間を終えて帰る時に「本吉病院の在宅医療は優秀な看護師がいて、全部教えてくれるからとても勉強になった。」って言ったのを聞いて、もう自分がいなくても良いと実感しました。
震災当初は院長・常勤医も辞めてしまい、津波の被害で病院機能も壊滅的な状況でしたが、この3年で東北大学から支援をしてもらえるようになり、支援医師が手厚くなった事で、現場は本当に落ち着きました。急性期を終えた事で、自分も本吉病院も次のステージに行く時ではないかと考えたのです。
また、自宅と病院の車で片道4時間の移動生活はやはり負担が大きくなっていました。初めは現場が悲惨だったので無茶を承知で通っていましたが、だんだん無理をして通っている自分が一番苦労している状態になりました。そんな折、長女が急に奈良県にある祖父の家に住むと言って家を出た事が、本吉病院を離れる一番のきっかけになりましたね。
結果、院長を代わってくれる医師も出てきて、離れて暮らしていた家族とも一緒に暮らせるようになったので、良い方向に進みました。
先生の今後の目標はなんですか?
先のことはあまり考えないので、まずは、来年の正月を生きて迎えるというくらいです。
また、8月に奈良に移ったばかりなので、そこで落ち着いたらやはり在宅医療が出来たらいいなとは思っています。
これまで様々な土地で医療を行ってきましたが、やはり地域の人と直接関わって、「網(ネットワーク)」で患者さんを支えられる様にしていきたいと思います。