福島の現状
先生の勤務先は福島県郡山市にある総合南東北病院。震災から3年がたちましたが、現在の状態はいかがですか。
忙しい日々は続いています。私が所属する総合南東北病院は、新規のがんの患者さんが年間約2000名来られます。また、周囲の市町村から救急受け入れ態勢を取っています。東北は、震災前から医師不足は言われていました。
例えば、私がセンター長を務める消化器内科は、診療規模や対象の患者数からすると常勤医が20名位いてもおかしくない状態ですが、震災前の時点で常勤医が9名、震災後はなんと3名にまでなりました。77歳の院長、7年目の先生とそして私です。 現在はもう1名増え、内視鏡の出張は他の病院からお手伝いに来ていただけるようになりましたが、救急、入院は7年目の先生と2人で対応しているので、全く足りない状況です。
私の生活で言うと、朝5:30に起き、20-21:00頃に仕事が終わります。食事は帰宅後の一日一食で、昼食と言えば缶コーヒーくらいです。 忙しくて食べる時間もないと言うこともありますが、検査などは集中しないといけないので、集中力を高める意味でもあえて食べ過ぎないようにしています。
また、「病院の中は走らないように」と言われますが、病院の建物が広いために、端から端まで歩くにも5分はかかるので、移動は小走りにしながら、毎日診察を行っています。 患者さんの数も増えていて、こちらの病院に赴任した2000年の頃は、病院全体の医師数は50人弱でしたが現在では140人になりましたが、まだまだ足りない状況が続いています。上部内視鏡の症例は年間3000件位だったのが、今や12000件程です。
なぜそんなに患者数が多いのでしょうか。
総合南東北病院がある郡山市周辺の市には、設備が揃っていて救急対応をしている総合病院が他にないのです。郡山市の人口は33万人ですが、周辺の市の人口を合わせると80万人以上になります。その人たちのライフラインになっているのが、この総合南東北病院なのです。
通常30万人以上の地域であれば、消化器内科は症例数も多いだけに50名位は常勤医がいそうなものですが、実際郡山市には当院以外の常勤医を合わせても10名いないのです。
非常に厳しい状況ですが、だからと言って「やめる」と言う訳にはいきません。私たちは‘通常’の病院の医師の2倍以上は働いているのではないかと思います。でも、私たちが郡山市とその周辺の市の人たちの最後の砦なので、「私がやらなければ誰がやる!」という思いで働いています。
著書出版、講演会、交流会・・・忙しい中でも頑張る理由
具体的にどのような活動をされているのですか
休日は全国各地で行われる講演会にて講演をさせて頂いています。また、本を出版させて頂いたり、SNSも含めて多くの人に会い、福島の現状を知ってもらおうとしています。 それ以外に、自分の知識や経験を伝えていきたいと思い、研修医教育にも力を入れています。
研修医の多くは真面目で頭が良いのですが、「学生」から「社会」に出るというカルチャーギャップがあるので、社会で通用するコミュニケーション力を鍛える必要があります。 学生時代には出会う事がなかった様な症例を経験することもしばしばです。アルコールに溺れてしまった人や、自分よりも50歳近く年が上の人と臨床の現場で向かい合った時に、どう対応してよいか分からないという事が多々あるので、それを指導していかねばなりません。
医師を教育するというのは知識や技術だけではなく、「医師としてのこころ」を伝えていく必要があると感じています。 患者さんから「先生に会いに来た」「先生だから言えるんだけど・・・」と相談してもらえる医師が一人でも増える事を望んでいます。
若い医師が単に福島に興味を持って働いてくれるだけでなく、患者さんの気持ちに寄り添えるよき臨床医に成長してくれる事で、地域の人がいい医療を受けられる事につながると考えています。
それだけ忙しい中で、どういう風にやる気を保っていらっしゃるんですか?
原発の中で、県名が付いているのは福島だけです。原発の問題で、風評被害があるのは仕方ないと思いますが、原発の名前に「福島」と付くから、福島全体に風評被害が広がったのではないかと私は思います。現在、郡山市の空間放射線量は他の地域とほぼ変わらないのですが、他の地域の人になかなか分かってもらえないのが現状です。
しかしながら、そんな状況でも福島に住んで頑張ろうとしている人もいます。共に働いている看護師の中にも、福島で結婚・妊娠・出産をしている方は多くいます。もちろん不安はあるでしょうが、それを乗り越えて頑張っているのです。福島県200万人のほとんどは風評被害と戦いながらも、頑張って暮らしているので、その人たちを置いて出て行く訳にはいかないと思うのです。
医師不足から福島では医療崩壊は始まりつつあるのかもしれません。でもだからこそ、新しい仲間として若い医師を呼びたいと思っています。そのためには「やりがい・働き甲斐のある環境」が必要です。それはすなわち他の地域や病院では得られないような貴重な経験や研修を積めるということです。
当院は新規のがん症例が年間約2000人受診されます。内視鏡の総件数は20000件弱。手術件数は4600件。眼科および外来手術を加えると7100件になります。PETを6台駆使してがん診療に力を入れています。救急車は年間約6000台搬入されます。これら診療規模や陽子線治療やBNCT(2015年治療開始)などの先進医療などから、他では得られないような貴重な経験を積むことができるのではないかと思います。自分の腕や知識を試してみたいという伸び盛りの若い医師によい医療環境を提供できると思っています。
私の診療している事に関していえば、患者さんに一度もゲップをさせない「苦痛のない内視鏡」を多くの若い先生に知ってもらい、実践につなげて欲しいと思います。また、著書の「腹部単純X線」の診断の可能性も多くの方々にお伝えして、画像診断を用いた臨床推論を普及させていきたいと考えています。 それらの診療が当たり前に行われることが僕の夢で、それを実現させるための努力が僕のやる気です。
幸い、私は未知の世界に対しての好奇心が旺盛で、知らない出会いが活力になります。様々な人との新しい出会いそれがやる気の維持につながっています。
北海道・利尻島での経験
その様に活動されるようになったきっかけはなんですか。
医学生時代から、「正義」を考える癖がありました。32歳で北海道利尻島に院長として赴任した際、救急搬送のためにヘリを頼んでも、2時間以上飛べない、利尻島に到着するまでに4時間以上というはざらでした。天候によっては1日近く来ないという事もありました。それは地域の医療を守る者にとっては死活問題になっていて、前任の医師達も改善要求を行っていましたが、実現していませんでした。
私が赴任した当時はヘリ搬送の関するデータが無かったので、まずはヘリ要請から到着までの全ての段階にかかる時間を分単位で記録し、その要因を解析しました。それらの結果を集計し、救急ヘリコプターの運用改善要望書として、利尻町を通して、北海道知事に提出しました。
また、地元新聞にも協力してもらい、利尻島の現状を出来るだけ多くの人に伝えてもらいました。結果、2年半の赴任期間に、北海道が防災・救急搬送用ヘリを今まで委託であったものを自前で購入する事つながり、ホットラインも運用されることになり、利尻島からの搬送依頼時には2時間以内に必ず到着するようになりました。
これらの経験から、誰が見て考えても分かり、「そうだよね」と言ってもらえる正義や真理を追い求め続ければ、多くの人々が理解してくださり、そして後押しをしてくれるのだという事を実感しました。
「こうなればいいな」と言う事は、思い続けるだけで実現する訳ではないですが、現状を分析し、現実的な解決策を考える事で実現につながるのだと思います。 今の福島の現状も医師が少ないからと言って、嘆くだけでは始まらないと思っています。だからこそ今出来る事、すなわち目の前の患者さんの診療を一生懸命行いながら、新しい価値観を有する医療に関する情報発信をしていきたいと思っています。そうすれば背中を押してくれる方や、福島の状況に理解を示してくれる方にきっと出会えると信じています。
今後の目標は何ですか
私にとって「患者さんに一人一人の為になり、地域、ひいては福島全体の為になる事をする」というのが目標です。地域医療を目指して医師になった時の思いから、全ては同じ道の延長線上にあるのだと思います。それは私の生きてきた証そのものです。
今後の目標は、若い医師が福島で初期研修期を過ごして、福島で続けて働きたいと思ってくれる様なやりがいのある研修システムを作り、彼らに新しい力を分けてもらい、更に仕事を充実させていく事です。
私は東日本大震災の時、仙台で出張中に被災しました。一晩だけですが、ホームレスを経験しました。でも、それも偶然ではなく、私がそこにいた理由があったんじゃないかと思っています。
「大変だからやめる」事は簡単です。ですが、それを諦めず頑張る事で得られる喜びは、他の誰もが知りえない事ではないかと思います。 私が利尻島、そして今福島で暮らし、働いている理由がきっとあると思います。そしてその延長に新たな出会いがあると思うので、それを楽しみながらこれからも頑張っていきます。