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INTERVIEW

川越救急クリニック

救急科

上原 淳

「町医者」、それも「社会的弱者の主治医」になりたい

今から5年前、埼玉県川越市に全国初の救急に特化したクリニック「川越救急クリニック」が開業しました。このクリニックの開業までには数々の壁が立ちはだかりました。保健所から開業許可が下りない、医師会からの入会拒否、埼玉県からの救急告示の拒否―――。なぜそんなに大変な思いをして上原 淳先生は川越救急クリニックを立ち上げたのでしょうか。開業に至るまでの道のりと想いを伺ってきました。

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学んだことを生かせる場に行きたい

はじめに、上原先生が医師となるまでの経緯を教えていただけますか?

入学した私立中学の同級生たちが、中学1年、2年ですでに自分の将来の夢について語っていたことに焦りを感じ、自分の将来について考えるようになりました。そして出した答えが「こんなに苦労して勉強しているのだから、大人になったら他の人の人生に影響を与える仕事がしたい。」そこで、得意な理系科目を生かして医師を目指そうと決めたのです。

また、実家が経営している小さな本屋で店番をしながら様々な本や漫画を読んでいて、それらにも影響を受けました。中でも新宿区歌舞伎町路地裏の汚い長屋のようなところで開業している医師を描いた漫画が好きでした。歌舞伎町周辺で活動している人たちが患者として来て、先生と患者が向き合って対話を重ねる中で診察していくのが面白かったのです。だからあまり大病院には興味がなく、「町医者」それも「社会的弱者の主治医」のような存在に憧れているところがありましたね。「こんな人たち相手に開業したら面白いだろうな」「こんな医者になりたい」と思っていました。

福岡県北九州市の産業医科大学に進学し、本当は心臓外科に進みたかったのですが、当時の産業医科大学病院の心臓外科には魅力が無く、外科系に何かしら関わるために麻酔科を選びました。そして麻酔科で2年程経験を積んで、どこか東京の心臓外科で有名な大学病院へ移ろうと思っていました。

そこでなぜ救急へ進まれたのですか?

麻酔科3年目ごろから、患者さんの全身を見て管理する麻酔科医の仕事が心臓外科より面白いと思うようになりました。そして6年目から取得可能な指導医まで取りましたが、そこで「苦労して指導医を取ったのに、麻酔は指導医がかけても研修医がかけても、手術自体が無事に終われば結局患者さんにとっての予後はほとんど変わらないし、何か新しいことができるようになるわけでもない。せっかくあんなに勉強したのだから、その結果が直接患者さんに出てくるところに行きたい」と思い、初めて集中治療や救急に興味を持ちました。

最初の勤務地は、福岡市立こども病院の新生児集中治療室でした。さらに違う病院を経験した後、産業医として働きながら週2日、救急の当直アルバイトを始めました。そこで初めて、救急に触れました。

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PROFILE

上原 淳

川越救急クリニック

上原 淳

1983年産業医科大学に入学。1989年に麻酔科医として、産業医科大学病院、門司労災病院(現・九州労災病院門司センター)、九州厚生年金病院(現・JCHO九州病院)に勤務し、麻酔科指導医を取得。福岡市立こども病院・感染症センターなどに勤務した後、1998年から九州厚生年金病院で救急担当医となる。2001年から埼玉医科大学総合医療センター高度救命救急センターに勤務する。2010年に国内初、救急科に特化した川越救急クリニックを開業。2015年NPO法人日本救急クリニック協会を設立し理事長を務めている(http://www.japan-emergency-clinic-association.org/)。

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