学んだことを生かせる場に行きたい
はじめに、上原先生が医師となるまでの経緯を教えていただけますか?
入学した私立中学の同級生たちが、中学1年、2年ですでに自分の将来の夢について語っていたことに焦りを感じ、自分の将来について考えるようになりました。そして出した答えが「こんなに苦労して勉強しているのだから、大人になったら他の人の人生に影響を与える仕事がしたい。」そこで、得意な理系科目を生かして医師を目指そうと決めたのです。
また、実家が経営している小さな本屋で店番をしながら様々な本や漫画を読んでいて、それらにも影響を受けました。中でも新宿区歌舞伎町路地裏の汚い長屋のようなところで開業している医師を描いた漫画が好きでした。歌舞伎町周辺で活動している人たちが患者として来て、先生と患者が向き合って対話を重ねる中で診察していくのが面白かったのです。だからあまり大病院には興味がなく、「町医者」それも「社会的弱者の主治医」のような存在に憧れているところがありましたね。「こんな人たち相手に開業したら面白いだろうな」「こんな医者になりたい」と思っていました。
福岡県北九州市の産業医科大学に進学し、本当は心臓外科に進みたかったのですが、当時の産業医科大学病院の心臓外科には魅力が無く、外科系に何かしら関わるために麻酔科を選びました。そして麻酔科で2年程経験を積んで、どこか東京の心臓外科で有名な大学病院へ移ろうと思っていました。
そこでなぜ救急へ進まれたのですか?
麻酔科3年目ごろから、患者さんの全身を見て管理する麻酔科医の仕事が心臓外科より面白いと思うようになりました。そして6年目から取得可能な指導医まで取りましたが、そこで「苦労して指導医を取ったのに、麻酔は指導医がかけても研修医がかけても、手術自体が無事に終われば結局患者さんにとっての予後はほとんど変わらないし、何か新しいことができるようになるわけでもない。せっかくあんなに勉強したのだから、その結果が直接患者さんに出てくるところに行きたい」と思い、初めて集中治療や救急に興味を持ちました。
最初の勤務地は、福岡市立こども病院の新生児集中治療室でした。さらに違う病院を経験した後、産業医として働きながら週2日、救急の当直アルバイトを始めました。そこで初めて、救急に触れました。
二人の患者との出会いから、本格的に救急の道へ進む
救急の現場は心臓手術等の現場と比べて、どのような違いがありましたか?
救急の当直アルバイト先では当初、右も左も分からず看護師さんの言う通りに動いていましたが、救急って感謝されるのです。
ある時、交通事故で骨盤骨折をした高齢の女性が運ばれてきました。どんどん血圧が下がる中で処置し、他の病院に入院してもらっていたところ、退院後わざわざご挨拶に来てくれたのです。それも一家総出で。「入院先の先生に『いつ死んでもおかしくない状態だった』と言われました、ありがとうございます」と言うのです。麻酔科医は血圧が下がっていたり死にかけたりしている患者さんを維持させるのは得意なので、自分としてはたいしたことをやったつもりはなかったのですが、すごく感謝さたのです。それまでは麻酔をかけたことで感謝されることは一度もありませんでしたから、感謝される医療に初めて接することができて、その面白さにのめりこんでいきました。
九州で救急に携わり、なぜ埼玉県の救急救命センターへ行くことにしたのですか?
九州厚生年金病院の救急担当医として呼ばれて3年目に、バイク事故で運ばれてきた17歳の少年が亡くなったことがきっかけでした。550床ある九州厚生年金病院は、一次二次救急の比較的軽症者は受け入れていましたが、時々三次救急病院に運ばれるべきではと思う重傷者が運び込まれることもありました。しかし、三次救急の重症患者が来たときに、救急を専門でやってきた人が一人もいないので、誰も対応できないのです。そして年に1、2例「これはもしかしたら助けられたのでは」と思う患者さんが亡くなっていきました。
その17歳の少年は、最初は「痛い、痛い」「胸が痛い」と言っていたのに、検査をしているうちに段々と血圧は下がり、意識は落ちてきて、レントゲン写真を見ると肺の外側に出血していました。これほどの重傷者を診たことがなかったので救急医学の本を見ながら処置をし、最終的には呼吸器外科医に手術をお願いしたところ、肋間動脈が4本切れていました。しかし2本は止められましたが、「あと2本は位置が奥すぎて止められない」と外科の先生が言うのです。止められないと言われても自分は何もできるはずがなく、そうこうしているうちにその少年は亡くなってしまいました。
「この少年は自分のところに来ないで、他の救命センターに運ばれていたら死ななくて済んだのではないか」と、彼に対してすごく罪悪感を抱きました。そして、その子がこの世に生きていたから変わったという何かがないと、彼の17年の人生は何も意味がなくなってしまう。彼の人生を意味あるものにするには「自分が何かしないと」と思ったのです。
それまでは救急が好きで携わってきましたが、救急救命センターに行くのは自分で控えていました。なぜなら当時の救命センターは、朝から夜まで寝ずに働いてぼろぼろになって辞めていくのが定評だったので、少し逃げているところがありました。しかしここで続けていても何も進歩はないと、患者数が多くさまざまな経験ができる大都市郊外の救命救急センターに行くことを決意しました。
一次二次救急を充実させる
東京で埼玉医科大学の堤 晴彦先生の講義を聞いたのがきっかけで、埼玉医大高度救急救命センターへ行くことになったのですよね。そこではどのような経験をなさったのですか?
埼玉医大の救急救命センターでは患者さんが運ばれてくると、救命センター所属の各科のスペシャリストが一斉に集まってきて自分の診られるところだけを処置しておのおの帰っていくのです。各専門の先生がどのように処置するのかを観察するのはすごく楽しかったですし、これぞチーム医療という印象で、救急のスペシャリストたちの処置を見るのはとても勉強になりました。
一方自分はというと、最初の半年程は救急での自分のアイデンティティにすごく悩みました。救命センターの医師たちは、麻酔科医が得意とする全身管理や気管挿管などの呼吸管理、ちょっとした麻酔に至るまで、全て自分たちでできてしまっていたからです。そのため自分は完全に役に立たない、ただの見学者状態でした。しかし半年程見ていると麻酔や呼吸管理は、やはり本職の自分が行った方が絶対上手いと自信が出てきて、大きな顔をしてチームの中に入っていくようになりました。そしてチームの一員であることが楽しく、誇らしく、2年程勉強して九州の一次二次救急に戻ろうと思っていたのですが、8年もいてしまいました。
その後九州に帰らず、川越救急クリニックを立ち上げた理由はどこにあるのでしょうか?
3年目に救命センター医局長になったことがきっかけです。医局長になると対外的な関係ができ、そこで初めて埼玉県の現状を見るようになりました。埼玉県の救急搬送はどこの病院も断り合い、押し付け合いで、最終的に行き場のなくなった一次二次救急の軽症者も三次救急の埼玉医大に運ばれてくる状態でした。
救命センターは重傷者を診るので、軽症者は大学病院内の各科に診てもらいます。そうすると、自分の専門分野を研究したくて大学病院にいる先生たちから研究どころではないと、救命センター医局長の自分に対して次々と文句が述べられるのです。一次二次救急患者を受ける病院がないからこういうことになるのですが、周りの病院を見ても救急を頑張ろうという病院なんてありません。周りに一次二次救急を受け入れる病院がないのなら作ってしまえということで、救急に特化したクリニックを立ち上げました。
川越救急クリニックは5年目を迎え、医師も上原先生を含め3名となりました。今後の、クリニックとご自身の展望を教えていただけますか?
メディアに取り上げられたことで一般の方への周知がされてきていますが、自分もやってみようという医師はあまりいないと思います。なぜなら運営自体が大変だし、絶対黒字が出ないと思うから。だから今は、自分の負担を減らしつつ黒字を出すことを使命としています。それも皆がやりたくなるような大黒字です。
救急クリニックは今後増えそうですので、日本救急クリニック協会というNPO法人から、新しく救急のクリニックを開業しようとしている医師をサポートしていこうと思っています。そして自分自身は、社会構造的に夜中の受診がとてもしにくくなっていると思うので、どのような患者さんでも受け入れ診られる医師になりたいですね。漫画のような「町医者」が原点ですから。
インタビュー・文 / 北森 悦