オーダーメイドの医療がしたい
-2016年4月から志摩市民病院の院長になると伺いました。
はい、今年度で私以外の全員、院長を含む外科医2名と整形外科医1名が退職されることになったのが2015年11月でした。1人では病院存続不可能なので、そこから2カ月間さまざまな先生に協力をしていただき、総合診療医の常勤1名と非常勤3名が加わり、病院存続することができそうです。
この病院は人口の減少とともに、患者数の減少、スタッフ不足、病院機能の縮小、赤字増大という状態で、存続が危ぶまれていました。診療所への転換や閉院となれば、透析の患者や通院もままならない高齢者、「施設でなく家に帰りたい」と願っている患者など、すでに社会的弱者である住民から、更に生きるための安心や夢、希望を奪ってしまう。市民病院としてどうしたら地域の住民により貢献できるのかを考えるため、昨年12月から志摩市内にある5つの町それぞれでタウンミーティング(住民との意見交換会)を行いました。
「私は困っていないから、赤字の病院はいらない」「給料泥棒」「病院をつぶして、道を敷こう」など厳しい意見も出た中、「安心して暮らしたい」「なにかあった時に心配」「残ってくれてありがとう」「応援します」「見捨てんでくれ」と、1つのみかんをくださったこともありました。目の前にこれだけ多くの助けを求めている人がいる中で、市民病院としてできることはまだたくさんと考えました。
-志摩市民病院に赴任するまでは、どのようなご経歴を歩まれたのか教えていただけますか?
三重大学医学部を卒業して、研修先は沖縄中部徳洲会病院を選びました。「絶対に助けを求めてくる患者を断らない」これがあの病院の精神です。当たり前のことですが、さまざまな事情から簡単にできることではありません。しかし私が今、どんな時でも一人も患者を断ったことがないのは、あの病院で叩き込まれた精神があるからです。
また、「目の前の命だけをどれだけ助けていても、すべての人は助からない。人間は歳をとると命よりも大事なものがでてくることもある。私たちが助ける対象は命でなく、その人自身。命は、助ける対象の一部分でしかない」ということも、あの病院の患者さんから教わりました。
患者さんに導かれるキャリア
-どのようなご経験をされたのですか?
鹿児島県の徳之島で研修をしていたときのことです。80代の女性で寝たきり、人工呼吸器がついて、胃瘻で栄養をされている方がいました。ある日、重症の肺炎になり命が危ない状態になりました。息子さんを呼び状態が厳しいことを伝えると、「心臓が止まっても、マッサージをしてなんとかしてほしい。隣の島の妹がくるまで、半日でも心臓マッサージをつづけてほしい」というのが希望でした。妹さんに確認の電話をしたら、「明日は娘のピアノの発表会があるから行けません。兄に任せます」と言われました。それを聞いても、息子さんは妹が来るまでマッサージを続けることを希望されました。
とうとう危ないという時、息子さんは院内ではなくパチンコ屋に行っていました。「何のために心臓マッサージをするんだ、マッサージをすることで患者を傷つけることに何の意味があるんだ」と、私は患者が不憫でたまりませんでした。丸2日間心臓マッサージを続ける覚悟をして、夜を過ごしました
翌早朝、妹さんが来院したと看護師に起こされ、すぐに患者に会わせました。今まで全く反応しなかった患者は、自分の娘さんの声を聞くや否や、両目から涙をこぼしたのです。その瞬間、モニターの波形がVFになり、心臓が止まりました。
この家族を目の当たりにして私は、患者の人生に対する自分の浅はかさを恥じました。患者の気持ちを一番分かっていなかったのは自分でした。
大学では命を助ける方法しか教えられません。しかし命を助けることだけでは、患者を助けることにはなりません。人は、様々な臓器が納められたただの箱ではなく、その箱を動かす意志が存在します。命はその一部分の要素でしかなく、私たちは患者の意志も十分考えた医療を提供しなくてはならない。そして、患者の意志は一つとして同じものはなく、その一つ一つに合わせた医療を行わないと、独り歩きした医療が患者を傷つけることになると考えるようになりました。
-そんな思いから、終末期に関わりたいと思い緩和ケア病棟に行くことにしたのですね。そこで経験されたことを教えてください。
40代の女性で末期の卵巣がん患者さんがいました。やっと子どもの手が離れ、あとは旦那さんの定年退職を待って、海外を始めさまざまなところに旅行することを楽しみにしていた矢先、卵巣がんが発見されたのです。彼女の最後の希望は「ハワイに行きたい」ということでした。しかし「旅行中何かあった時のことを考えると、怖くて連れて行けない」と家族に反対されていた彼女は「だから先生、ついてきて来て」と言ったのです。
その時、私は何も言えませんでした。「ついて行けません」とも、もちろん「ついて行きます」ということも言えなかったのです。医師であるのに、自分にできることがないことが大きな失望でした。患者さんの最後の希望を叶えられない医師は存在する意味があるのだろうかと、その時は非常にショックを受けました。だから、船の上に病院は建てられないものかと、ピースボートの船医を経験することにしました。
「診られない」ではなく「診なければならない」
-患者さんとの出会いで、先生は常に自らの道を選ばれているように感じます。
その通りです。患者さんの声に耳を傾けていることで、私たち医師は何を求められているのか、どのような治療が望まれているのか分かります。そうやって患者さんの声を真摯に受け止めていけば、自然と患者さんにとって最良の医療が出来上がってくるはずです。
しかし、最近はどちらかというと何かしらの理由をつけて患者さんを「診ない」医師が多いように思います。それを象徴しているのが「モンスターペイシェント」という言葉だと、私は思っています。患者さんは痛みや苦しみで、心の余裕が失われます。自分中心になるのです。それがモンスターなら、患者は皆、モンスターです。私はそう考えています。
「目の前の困っている人を助けたい」これが医師を目指した理由です。志摩市民病院の院長となっても、この思いは変わりません。住民にとって必要とされている病院なので、時代とともに変わっていくニーズを感じ取りながら、必要に応じて新しいことにも挑戦していくつもりです。今後も住民のニーズに合った医療を提供して行きたいと考えています。