日本の救急医療と教育をもっと良くしたい
―現在どんなことに取り組んでいるのでしょうか。
2017年から国際医療福祉大学に所属し、医学部救急医学講座の准教授、三田病院救急部長として勤めています。2020年に千葉県成田市に新たに開設する国際医療福祉大学成田病院の開設準備を進めています。レイアウトから、必要な人材採用まで、一通りのことを決めています。臨床や研究、医学生・看護学生の教育もしていますが、新病院立ち上げにまつわる仕事を第一優先としています。
―東京ベイ・浦安市川医療センターから国際医療福祉大学へ移られた理由は何ですか?
日本の救急医療をもっと良くしたいという想いからです。関東にER型診療の先駆けとなる施設、東京ベイ・浦安市川医療センターを立ち上げましたが、いい病院を1つ作ったところで、日本の救急医療は変えられない。やはり教育が重要な要素になってきます。
1学年に医学部生140名、看護学生や臨床検査学生200名。さらに初期研修医や後期研修医が含まれると、年間400名ほどの学生や研修医に教えることができます。前職の東京ベイ・浦安市川医療センターでは、多くても年間100名弱。接することができる後進の人数は、圧倒的に違います。
もちろん接する人数が増えれば、一人ひとりとの関わりは薄くなるかもしれませんが、何回か授業をすれば、必ず学生に私の想いや考えを伝えられます。
―教育面では、どういう次世代リーダーを育てたいとお考えですか?
組織を運営するために、リーダーとして「透明性」「分かりやすいルール」「権限委譲」ができる人材です。情報に関してはなるべく透明性を保ち、分かりやすいルールで組織を運営し、そして部下にどんどん権限をあげられる人です。
アメリカで救急医療などを学んでいたときの管理職すべてがそうだとは言いませんが、良いリーダーは今言った3つのことができました。
組織をマネジメントする際の全ての責任を負いながら、部下が何か手柄を立てたときは、「あなたのおかげだ」と、褒めて讃える。いま日本でも注目されているサーバントリーダーシップができる人材ですね。
目標と強い信念を持ち、準備してきた
—医師を目指したきっかけと、これまでのキャリアを教えてください。
小さい頃から伝記を読むのが好きな子どもでした。社会を変えたり、何かを成し遂げたりできる、創造的な人に憧れていました。高校生入学当初は研究者になろうと思っていましたが、最終的に医師を志し、千葉大学医学部に進学しました。
千葉大学に入学した当初は、整形外科医になりたいと思っていました。そのために、所属していたサッカー部の先輩に、整形外科医のキャリアパスについて聞いていたほどです。でも、徐々に大学で病理学や薬理学など幅広くさまざまな分野を学ぶ中で整形外科医以外のキャリアに興味を持つようになりました。
また、例えばカテーテル治療や内視鏡治療など、1つの手技を繰り返し訓練して自らのスキルを上げていくのは、私にはあまり向いていないかもしれないと思ったこと。それよりも総合診療や救急医療の分野で、幅広い世代の多様な疾患を診ていくほうが、やりがいを感じられると思ったのです。それで、徐々に救急医になりたいと思うようになりました。ところが、体力に自信のなかった私は、3次救急ではやっていけないのではないかと感じていました。
そんな時に、たまたまテレビ番組「ER」でER型救急を知り、これなら、軽症から重症までさまざまな症例に携われて、かつ、シフト制で働き方としても自分に合っているのではないかと思うようになりました。そして、新医師臨床研修制度が始まる前から、ローテーション制度を導入していた東京医療センターで初期研修をしている時期に、寺沢秀一先生や林寛之先生の「研修医当直ご法度」を読み、寺沢先生にはお目にかかり、ER型救急での救急医になろうと決意しました。
一方で私は、もともと米国留学したいという思いがありました。というのも中高生時代に、帰国子女の同級生が当たり前のように英語でコミュニケーションを取っていることに衝撃を受け、コンプレックスを感じていました。また、日本企業の海外進出、グローバル人材育成が加速していた時代の潮流もあり、自分もいずれはアメリカで働きたいと思っていました。
そうは言っても、医学生や初期研修医時代は、米国医師免許を取得する際に必要な試験USMLE STEP1で、満足のいく点数が取れるほどの勉強ができず――医師3年目から在沖縄米国海軍病院で勤務しながら、留学のための勉強を進め、浦添総合病院(沖縄県)に赴任後、USMLE STEP2をクリア。2006年からメイヨー・クリニックの救急科に勤務しました。その後は、教育者としてのキャリアを積むためにハーバード大学・マサチューセッツ総合病院のシミュレーション教育フェローシップに進みました。その中で、ハーバード大学でいくつかの教員研修を修了。また、教育者として臨床研究などに取り組み、ハーバード大学公衆衛生大学院 公衆衛生学修士も取得しました。
-それから日本に戻って、東京ベイ・浦安市川医療センターの救急科部長としてセンターの立ち上げを経験されたのは、どういう理由からですか?
同院でER救急の立ち上げの話があり、その部長をやらないかと誘われたのがきっかけです。ただ、やりたいという気持ちがあった反面、35歳で若かったですし、管理職の経験もなかったので不安もあり、当初はとても迷いました。
その迷いが吹っ切れたのは、『研修医当直法度』の著者であり、福井大学医学部附属病院にアメリカのER型救急を導入した寺澤秀一先生の後押しが大きかったですね。直接、寺澤先生に相談したところ「うまくいかなくて当然だと思っているから、失敗しても責任はないし、うまくいったら君の手柄になるから、いい機会だと思って、やってみたらいい」と、励ましていただきました。
実際、チャレンジして正解だったと思います。2017年現職に着任するまでの5年間で、ほぼゼロの状態から、救急科専門医が約7名(うち救急科指導医2名)、救急科の専攻医を合わせると27名が勤務し、年間約9000台の救急車を受け入れられるくらいまでに成長しました。既存の大学病院よりもキャパシティはあります。
-たった5年でそこまでの規模に成長できた秘訣は何ですか?
やはり小さな頃から、「何かを立ち上げたい」「何か新しいものを作りたい」と思っていましたし、学生時代から、そのつもりでさまざまなことを学び、準備してきたのが影響していると思います。
例えば、臨床医として秀でていることも大事な要素です。医師というのは、口が達者であっても、 現場で「この人とやれてよかった」と、他者の心が動く医師にならないと、人も集まらないですし、あの人の後をついて行こうとは思ってもらえません。そういうことで、医師としての実力、そして知名度は必要不可欠です。
もう1つは、「合理性」「組織性」「科学性」に基づいた組織の構築です。さきほどもお話した、組織運営に求められる要素「透明性」 「わかりやすいルール」「権限委譲」の3つは、「合理性」「組織性」「科学性」からきています。これをハーバード大学などで綿密に計画して実践してきたことで、東京ベイ・浦安市川医療センターでも活かせたのだと思います。
国際競争力をもった人材を育てたい
-振り返ってみて、アメリカで一番学んだことは何ですか?
一番は「合理性」「組織性」「科学性」という観点で一貫して取り組めることです。
喉が痛い患者さんが来た時にどういうことを調べて、どういう考えのもと治療していくのか。研修医や若手を教える時の教え方にはどういうやり方があるのかなど――。それらを属人的な経験ではなく、科学的根拠に基づいて、研究がなされ、学んでいくことができます。
また、日本にはまだまだ「空気を読め」という同調圧力や不合理なことが、病院によってあると思います。もちろんアメリカに全くないわけではありませんが、そういうことがあると、みんなで変化を起こしていく環境やムードが根付きません。
東京ベイ・浦安市川医療センターの立ち上げでは、そうした観点を導入して、運営なども行ってきました。
-最後に、ご自身の取り組みを通して、日本社会に対してどういうことを提供したいと考えていますか?
一言で言えば「国際競争力」。この力を身につけた人材を育てていきたいと思っています。そのためには日本の良さも残すべきですが、それ以上に、より合理的・組織的・科学的な研究や、創造性のある人材を日本の医療から発信していくべきです。国際競争力を持った人材が、臨床や教育、研究、起業の領域で活躍し、それによって日本の救急医療の質を高めていく。そういう社会をつくっていきたいですね。
(インタビュー/北森悦、文/西谷忠和 )