父島・小笠原村診療所で、できる医療を増やしていく
——2015年から小笠原村診療所に勤めていますね。
そうです。現在は小笠原村診療所の所長も務めています。
東京都に属する小笠原諸島には、30あまりの島々がありますが、有人島は父島と母島の2島のみ。小笠原村診療所は父島にあります。父島は本土から約1000㎞南に位置していて、人口は約2000人です。
島には飛行場がないので、本土からの交通手段としては、片道24時間の定期船「おがさわら丸」のみです。この定期船が週に1回程度、港区の竹芝桟橋と父島を行き来しています。本土から父島を訪れるには、最短でも5泊6日必要。日本のへき地の中でも、地理的に最も遠い地域かもしれません。小笠原の住民が所用のために本土へ行く場合、帰島するまでに通常は短くても10日間を要します。ですから島民が本土の専門医療機関にかかるのは、かなり大変なことです。
また高次医療機関への救急搬送が必要になった場合、航空機搬送はできるのですが、本土の病院に到着するまでに約9時間かかります。今言ったように、島には飛行場がないので、急患が発生したらまず、自衛隊に活動を要請。父島から南南西270㎞のところにある硫黄島には自衛隊基地があり、医官が常駐しています。硫黄島から医官が乗った救難ヘリコプターに来てもらい、患者さんは一度硫黄島に移動。一方本土からは、収容予定病院の医師が乗った飛行機が硫黄島の自衛隊基地へ向かいます。硫黄島に移動した患者さんは、本土から到着した飛行機に移され、本土の病院へと運ばれるのです。
専門の医療機関にかかることも大変ですし、島で提供できない医療も多いですが、だからこそ、新たにできそうなことを見つけて取り組んでいくことが大事なことだと感じています。一例としては、小笠原ブラッドローテーションシステム(以下、BRシステム)が2014年から運用されています。
BRシステムとは、赤血球を赤十字血液センターから小笠原へ供給してもらい備蓄すると同時に、未使用製剤を血液センターに戻し、有効期限内に協力病院で使用してもらうことで廃棄を回避するというシステム(T.Igarashi, “Patient rescue and blood utilization in the Ogasawara blood rotation system” Transfusion. 2018 Mar;58(3):788-794.)。世界的に見ても例のないシステムです。父島で2014年から、母島では2018年から運用を開始しています。BRシステムが始まるまでは、本土からの血液を待てない場合、緊急輸血には島内採血(生血輸血)しか選択肢がありませんでした。
他にも専門的な治療を「できない」と決めてかかるのではなく、島の現状を考慮しながら1つ1つ検討し、場合によっては「こちらの治療であればできるかもしれない」「順次できるように準備していこう」と、できることを増やしていっています。
——現在、導入を検討している治療などはありますか?
可能性として考えるもののひとつには、慢性腎不全に対しての透析療法があります。現在、父島ではこの治療法は一切できません。血液透析はすぐにはできないかもしれませんが、腹膜透析からなら始められるかもしれません。今後の患者数の推移も考慮しながら、必要があれば対応していくつもりです。
外科から救急、そして離島医療へ
——小笠原村診療所に着任する前は、救急医として都立墨東病院救命救急センターに勤務されていたそうですね。これまで、医師としてどのようなキャリアを歩んでこられたのですか?
私は熊本県天草市の出身で、1997年に熊本大学医学部を卒業しました。大学卒業後に選んだ診療科は外科。大学病院の関連病院を回って外科のトレーニングを積んでいました。
そんな中、先輩が「地方だけではなく、東京や大阪のような大都市にも行ってトレーニングを積んだ方がいいのでは」とアドバイスをくれたのです。当時は、後期研修プログラムのようなものをつくる市中病院が次第に増え始めていた頃でした。そこで私は、熊本大学の外科医局に在籍したまま3年間、都立駒込病院の外科研修を受けることにしたのです。
もともと研修を終えたら熊本に戻るつもりだったのですが、研修が終わりに近づいてきた頃、自分自身のキャリアに悩むようになっていました。というのも当初の予定通り熊本の医局に戻ったら、自分の中では臓器を絞って専門性を高めていくというイメージだったのですが、当時の私は、臓器を絞ったスペシャリストとしてキャリアを積んでいきたいと思えなかったのです。
このように悩んでいた時、研修プログラムの一環でお世話になっていた都立墨東病院救命救急センターの部長から「うちで、しばらく働いてみないか」と声をかけていただいたのです。
同センターは3次救急の初期治療だけでなく、継続して根本治療も行っていました。「ここなら、外科をサブスペシャリティとして活かしながら幅広い疾患や治療に携われるかもしれない」と考え、医局を辞めて同センターに就職。12年間、墨東病院の救命救急センターに在籍しました。
——12年務めた墨東病院救命救急センターを辞め、小笠原村診療所に赴任したのはなぜですか?
小笠原村診療所に興味を持ち始めたきっかけは、妻が一時期、同診療所に看護師として勤務していたことでした。結婚直後のことでしたが、彼女は僻地医療に携わってみたいとの理由から単身で1年半の間、勤務していたんです。その間、私は休暇を利用して何度か父島に遊びに行っていました。そのうちに、診療所の運営母体である村役場の方々と知り合いになり、同診療所の代診医も経験させてもらいました。
1年半の勤務を終えて妻が本土に戻り、子どもが生まれるなどプライベートの変化もあった中で、徐々に私は自分のセカンドキャリアについて考えるようになっていきました。
もちろん墨東病院の救命救急センターで救急医としてのキャリアを継続することも選択肢の1つとして考えましたが、一方で地域医療にも興味が出てきていたのです。
——なぜ地域医療に興味が出てきたのですか?
例えば、末期がんの患者さんが間もなく息を引き取るタイミングで、ご家族が心配になって119番してしまい搬送されてくる例は少なくありませんでした。また、普段の生活や体調管理を気をつけていれば、救急搬送されるほど症状が悪化するのを避けられたはずの患者さんもたくさん診てきました。
このような患者さんを診るたびに、地域に、安心して受診できるかかりつけ医がいることや、かかりつけ医とコミュニケーションをしっかり取れる関係性を築いておくことの重要性を痛感するようになっていったのです。そういったことは救急医療ではなく地域医療の枠組みの中で行われることで、その部分に興味を持つようになったのです。
このように考えるようになっていた頃「小笠原村診療所の医師に欠員が生じます。働きませんか?」と村役場の方から連絡をもらうようになっていました。そして徐々に、セカンドキャリアとして離島での地域医療に従事することを具体的に思い描けるようになり、小笠原村診療所への赴任を決意しました。
戸惑いながらも経験積んだ離島診療所医師の今後
——ご家族は一緒に移住されたのですか?
そうです。子どもの教育環境を懸念して、僻地医療に踏み出すのを躊躇される方もいるかもしれませんが、私は自然豊かな環境から得られることもたくさんあると思っているので、迷うことなく家族揃っての移住を決めました。
——救急医から離島診療所の医師への転身だったので、戸惑うことも多かったのではないですか?
はい、自分の知らないことがあまりにも多いことに、最初は戸惑いましたね。先程お話ししたように、島の患者さんが本土の専門医療機関にかかるのには、相当な負担があります。ですから、眼科や皮膚科といったマイナー科だけど受診頻度が高い診療科については、患者さんが専門の先生に診てもらわないと心配だという状況を回避するような診療をしなければなりません。
頭では分かっていましたし、そのつもりで勉強していましたし、着任後にも勉強しなければいけないことも想定していたのですが——やはり知らないことというのは、知らないからこそ全体像を想像できず、新たな知識を得るほどに「あれも足りなかった。これも足りなかった」と、次々と勉強しなければならないことが出てきました。
それこそ最初の頃は、診察室に来た患者さんに「専門の先生に相談しますのでお待ちください」と一度帰ってもらい、連携医療機関にコンサルトし、その結果を説明するということも頻繁にありましたね。
でも1〜2年もすると、経験を積んで対応できるようになったことも増えていきました。現在は着任当初のような苦労はずいぶん減ってきていると思います。
——今後の展望はどのように描いていますか?
しばらくは当診療所での勤務を続けると思います。ただ5年後、10年後に自分がどのような道を歩んでいるかは分かりません。20年前の自分は、今の自分がまさか離島診療所の所長をしているなんて、夢にも思っていなかったですから。私は先々のことを考えるよりも、今の自分がどうありたいのかを大切にしながら、この先も歩んでいきたいですね。
(インタビュー・文/coFFee doctors編集部) ※掲載日:2021年6月10日